ティキ・ミックは己が歪んでいるについて十二分に自覚のある男だが、そういう男と平気でつきあえてしまう女というのも多分にどこかおかしいのではないか、と思うことが常々ある。
例えばミランダ・ロットーの場合。
不幸女と呼ばれ、他人よりも多少、いやかなり出来の悪いおつむと不器用な身体を抱え失業回数3桁の大台を叩きだしながらも、最後の最後でイノセンスとの適合という数万人に一人の適性を掘り当て、世界に数人しかいないエクソシストへの就職という一発逆転(それが幸か不幸かはさておき)を決めたミランダ・ロットーなる数奇にして珍妙な女の場合。
それら全てを補ってあまりある希有性というのはおそらく、その鈍重なる精神力にある、と彼は思っている。
要するに単なる馬鹿なのだが、その上に鈍いときているから、その馬鹿さ加減に底がない。
だから駄目と知りつつ何度もやる。同じ過ちを何度も繰り返す。
それで痛い目を何度見たかわからぬというのに、彼女の愚鈍なる精神力はその恐るべき耐性で以て痛みも傷も自身の致命的な部分にほとんど届かせないという性質を持つ。
泣いても泣いても、1日いや下手をしたら1時間後ぐらいには立ち直っている。
時を巻き戻す彼女のイノセンスはひょっとしたらあの古びた時計にではなく、彼女の体内にこそ宿っているのかもしれなかった。失敗や嫌な体験含め彼女を傷つけるいかなる事象もなかったことにしてしまう、というような。
おかげで罵声混じりの教訓だの折檻込みの忠告だの、ほとんど毎度のように繰り返しているはずの彼の行為は、ついぞ彼女の身に染みた試しがないのだった。
例えば今、目の前にあるもののように。
「おい…なんだそれ」
たまの休日だというのに教会の手伝いとかで別の町に行っていたミランダにようやく落ち合えたのは深夜も間近のこと。
その町の宿に泊まるミランダを見つけて強引に押し入り、ベッドに腰掛けて彼女の着替え(といっても要は脱ぐだけなのだが)を臆面もなく見物していたティキ・ミックはミランダの首にある赤黒い痣を見て目を丸くした。
確か彼女の今日の仕事は、救貧院の慰問とやらのはず。
それでなんでこんな物騒な鬱血痕をこさえてくるのか。
「黒の教団」はバチカン内でも極秘の組織とはいえ、これだけの大所帯を隠したままにしていることもできずその構成員はなんらかの形で表の地位を持っている。
例えばミランダやリナリーの場合は「修練女」としてとある架空の修道院に属していることになっていた。
なのでたまに、ごくたまにではあるが表の仕事らしいこともしているらしい。
特にミランダ・ロットーの場合には。
教団のエクソシストならば本来は対AKUMA兵器として戦闘のための訓練だの、イノセンスの研究への協力だの、待機中であってもしなければならないことはそれなりにある。
現に一度彼と対峙した黒髪の日本人剣士などは日々剣を振るっての稽古に余念がないし、もう一人の女エクソシストなどは身内が研究部署の筆頭ということもあってイノセンスの適合率を上げるための訓練にいそしんでいるときく。
ましてAKUMAは世界中どこにでもいて、発見されるや否や地球の裏側だろうと派遣されるのが当たり前。常に臨戦態勢で待ち構えていなければならない…はずなのだが。
ミランダ・ロットーの場合は、それがない。
否、ないわけではないのだが、とりあえず外されている。
教団のエクソシストである以上それが許されるというのは相当の理由が必要だが、ミランダの場合ははっきりと暗黙の了解で以てそういうことになっている。
なんとなれば適性がない。
もちろんミランダとて、教団に来た当初は、他のエクソシストと同じように訓練を受けていた。基礎体力作りから始まって、護身術、格闘、剣技、射撃などの体術のみならずバチカンに属する者としての当然の心得、聖書・聖典の教理、精神力の強化、イノセンスとの適合訓練など。
だがそのほとんど全てが中途半端な状態で放り出されているのはなんのことはない、早い段階で見切られたからである。
つまり、アレに戦闘は無理だと。
ティキ・ミックもそれについては異存なく、教団もたまにはマトモな判断を下すものだと思っている。
確かに彼女に戦闘など、鼠に猫を狩ってこいというより無理な話だ。
いくら頑張っても世の中には無理なこと、というより向いていないことはある。
ミランダ・ロットーに人と争い諍う適性などどこをどうとってもありそうにない。
他人を殴ったり叩いたりは到底無理。刃物など持たそうものならおたおたして自身の指を切り落としかねない有様。銃など差し出されただけで飛び上がって震えだす。他人を傷つけるどころか敵意を表に出すことすら難しいだろう。
そんな人間にAKUMAと戦えなど酷な話だ。
幸いにして彼女のイノセンスは後方支援向きなので、具体的な戦闘訓練はとりあえず置いておく、ということになり結果として今の彼女がやっているのは基礎体力作りとイノセンスとの適合訓練、あとは書物で学べることくらい(それさえおぼつかない頭だからお茶を濁すような形で表の仕事が回されてきたりするのだが)。
だから荒事とは無縁の場所に派遣されているはず、なのだ。常日頃は。
まして表の仕事のほとんどは慈善行為である。
間違ってもこんな傷跡をつけて帰ってくるような仕事は回らない。ないはず、なのだが。
「ちょ、ちょっと、それ見せてみ。ほらここ来てミランダ」
彼の座るベッドの横をぽんぽん叩いてせかすと、彼女はきょとんとした顔で彼の隣に腰掛ける。
間近で確かめても間違いようのない、鬱血痕だった。
ごていねいに人の手指と思われる形をしている。
もはや誤解や勘違いですまされるはずもないその痕にティキは深い、深いため息を一つ。
「……なんで慰問に行って首絞められて帰ってくんの、お前」
しかもそれを本人が大事と捕えていないらしいのが問題だ。
この調子ではどうやら教団側にも報告はいっていないだろう。
もしいっていたらこんな安宿に呑気に放置されているはずがない。適性はともかく大事な大事な世界に数人のエクソシスト様なのだ。
「頼むからさぁ…もうちょっと考えようよお前。こんな傷つくるような職場もういい加減辞めなって」
この忠告ももう何度も繰り返したか分からない。
しかし今日のこれは普段のそれとはまた訳が違うものだ。
エクソシストとしての仕事ならばまだ傷ついたり怪我を負ったりするのは無理からぬ話、要は彼と重ならない利害の外にいてくれればいいのだと、そう思っていた矢先にこの始末。
バチカンに縁ができたなら幸い、エクソシストでなくても教会関係のどこかに就職してくれれば本人の使命感ともティキの都合とも折り合いがついてちょうどよいかと思っていたのに。
普段の仕事ですらこんな傷をつけて帰ってくるようではそれも到底安心できやしない。
「なんでこんなことになってんの」
重ねて問えば、ミランダは言いにくそうに、けれど正直に事情を話した。
精神病を患って救貧院に預けられていた身寄りのない患者の話を聞いているうちに、興奮してきた当の本人が突然襲いかかってきたとのこと。
もちろんそんな危険な相手に一人きりで対峙するわけもなく、もう一人シスターがいたらしいのだが、なにせ相手は男、それも狂人とあって悲鳴を上げる以外の役には立たなかったらしい。
ミランダの裏の事情としてエクソシストであったということも悪くに働いた。
常日頃AKUMAと戦っている人間なのだから多少危ない人間の相手でも大丈夫だろうと思われたらしいのだ。本人は知らぬことながら意図的にそういう相手を回されていたらしい。
そういった事情の全てを、ミランダは訥々といつものごとく言葉を選び選びして話した。努めて自分以外の者のことを悪く取られぬよう、勝手な思惑を押し付けた教会関係者はおろかこの傷をつけた当人のことさえ。
「その、気の毒な方なんです。お母様に小さい頃捨てられて、婚約者だった方が彼よりお金持ちの男性と結婚されたりで女性全般が信じられなくなって。もとはお医者様だったそうなんですけど女性を見るとどうしても殺したくなってしまう衝動が抑えきれなくて、ご本人もそんな衝動をもったことをとても苦しんでらして、それで教会に救いを求めにいらしてたんです。首を絞めようとなさった後も、とても反省して何度もすまないって詫びてくださいましたし」
教会関係者の方にも大事ない、AKUMAとの戦闘にはよくあることだとそう言って出てきた。
事を荒立てれば教団側からのクレームは免れないということで、結局ミランダの主張が通ってしまったとそういうことらしかった。
ティキにしてみればそういう問題ではない、そんな狂人を野放しにしておく方が問題じゃないかと思うのだが。なのにミランダは責めるどころか相手をかばうことしきり。
そんなわけでますますティキは面白くない。今やはっきりと機嫌を損ねた様子の彼にミランダは息を詰めておとなしく、けれどびくびく様子を伺っている。迂闊に声をかければ厳しい叱責か罵声が待っていると経験上知っているからだ。
教会側も今後の監視はしっかり強化するとは言ったそうだが、監視と言ったって鍵をかけて閉じ込めているわけではない。救貧院は基本的に出入りは本人の自由意志なのである。
とっとと精神病院にでも閉じ込めろと彼ならば主張するだろう。そして今回ばかりは誰が聞いたってティキが正しいと思うはずだ。
やはりバチカンなどものの役に立たぬ集団だ。早く滅ぼしてミランダを救い出さねばとティキはいらぬ決意を固めると、息をつめて彼を見守っていたミランダにようやっと笑いかけ、痛々しい痕の残る首筋に唇を落とした。
翌日。
一夜明けてまた一段と変色の酷くなった首筋を襟の高い服で隠したまま、ミランダは教団に帰って行った。
ティキは駅まで彼女を見送った後、煙草をくわえしばらく何事か考え込んでいたが、やがて歩き出す。
構内から出てきた時は、彼女と別れた姿ではなく、黒のフロックコートとシルクハットの紳士然とした装いで。
明らかに貴族らしい青年の訪問は、多額の寄付金を期待する教会からは大喜びで迎えられた。
あちらこちらと連れ回されては望む場所のほとんどを見物できたので、ティキはこちらの真意を汲み取らぬ情報提供の礼としてそれなりの額の小切手を渡し、その場所を出た。
再び訪れたのは深夜も近い時刻になってから。
誰もが寝静まった時刻に門をくぐって出てきた男の後を気付かれぬようにつけていく。
イーストエンドの裏路地の闇に、その姿を隠して。
誰の目も気にせずにすむと判断した頃、彼はようやく気配を解いた。10歩も歩かぬうちに相手が振り返るのも当然ながら予測のうち。
濁った目で彼を見る視線は明らかに常軌を逸した男のもので、けれど彼を誰何する声は震えていた。
「誰だ、お前」
街灯に半ば影を潜めた彼の装いが貴族らしいと認めてか相手がわずかに警戒を緩める。
ティキは2歩進み、嘲笑った。
相手がたじろぐのがわかる。
その手に光る細身のナイフ―ティキにはそれが外科手術用のメスだという知識はない―を認め、何の目的でそんなものを持ってうろついているのかも正確に事情を察した。
「オレが誰だろうと、何だろうとアンタにはどうでもいい。同様に、アンタが誰だろうと何だろうと、もうどうでもいい」
さらに、1歩。
獰猛な、邪悪な気配が身に迫るのを察し、それでも縫い付けられたように男は動かない。――動けない。
「殺し合いには公平なルールだろう? 見も知らぬ素性も分からぬ相手だからこそお前も思う様切り刻めるんだろう?」
臆病者め、と言外に告げ、なおも彼は言葉を継いだ。
「だがお前が手を出したアレはオレのモノなんだよ。ひとのモノに余計な痕つけてくれた、その礼だけはしときたくてねぇ?」
ティーズ、と彼は呼んだ。
黒い蝶がひらりと、彼らの中間に現われる。
「喰っちまえ」という彼の声が聞こえるかどうかの合間。爆発的な勢いで増殖した黒い影が、相手に襲いかかった。
次に彼女に会ったのは1週間後のこと。
見せてみ、とせがんだ彼に差し出された細い首筋にはまだ癒えきらぬ痕がわずかながらも残っていた。
目を細め、そっと撫でてやると背筋がぴくんと跳ねるのが分かる。
「ちょっと、治ってきた?」
はい、と囁くような声が聞こえ、けれど恥ずかしそうに身を捩る。
彼の視線をその痕から逸らそうと。
けれどぐるりと回った首筋のどこを見ても、その痕は目に入る。
それがティキには忌々しく、別の事実をつきつけられたように映る。
自身の額に浮かぶ聖痕と、彼女の首筋に巻かれた痕と。
生き残るべく選ばれた証と、贄とされ屠殺されるために選ばれた印。
天国の門をくぐる資格はあれど彼の傍に置かれることはない。
ミランダ・ロットーはそういう女だ。
それでも今だけは。
寝台に共に身を沈めながら彼の目はずっとその印に注がれていた。
彼の意にならぬとつきつけられた、その証に。