なぁーーんにもないところなんだよなぁ。海ばっかりでよ。首都のリスボンだってロンドンやパリと比べるとなんか田舎臭ぇし、産業はぱっとしないし、ロクな働き口もなくて、今じゃ植民地だったブラジルの方が景気いいってくらいで。貴族と商人が幅きかせてんのはイギリスと同じだけどよ。そいつらだってもとは田舎の地主あがりだからなんか垢抜けねぇし。だいたい王様からしてナポ公に追ん出されてから他所の国行ったきりてんだから話になんねぇだろ。500年前から落ち目なんだよあの国は。やぁっと王政廃止だ共和制だって騒いでるけどさ、それだってフランスからの受け売りなんだぜ。昔っからスペインとフランスのご機嫌取りでなんとかなってるだけなんだ。
え? そりゃこっちに比べりゃ暖かいよ。ロンドンみてぇにじめじめしてなくってほとんど晴ればっか。
過ごしやすいっていやぁそうかもな。夜中に地面っぱたに転がってても凍死ってこたないし。昼間っから能天気にごろごろしてんのが多いんだ。や、働こうにも職がねぇってのがホントのとこなんだけども。だからってこっちみてぇに暗~い顔して街路に突っ立ってるってのはないよ。ああいうのはよくないね。どんなときでもなるようになるって気でいなくちゃ。やっぱ天気のせいだろね。こっちの空は毎日どんより曇ってて見上げてても憂鬱になるばっかりだろ。
あっちの空は……空はきれいだよ。海もな。どっちもきれぇーに澄んでる青だよ。
雲ひとつねぇ快晴の空ってのはこっちじゃ滅多に見れねぇよな。
あ、お前の国もそう? 北ドイツだもんな。
雪の街って感じだよな。空なんかもやっぱ灰色っぽいんだろ。だから暗いんだお前。
怒るなって。別にそれが悪いだなんて言ってないだろ。
あっちの国の女なんてよ、へんに悩み事ないせいか太ってんのが多いのよ。
男はそんなことないのにさ、10越えたら軒並みぶくぶく太りやがんの。尻と腹にみっちり肉ついてんだぜ。
だからか多産なのが多くってさ。ガキもぼろぼろこさえやがるしよ。
お前みてぇに痩せてて背の高い女って珍しいんだ。おおよ自信もっていいぜ。そこんとこだけはな。
うん、機嫌直った?
そうそうそうやって笑ってな。
なんでこんな話になったんだっけな、とミランダの膝の上に頭を置いて、すっかりくつろいでいる男が小首をかしげた。
珍しくも晴れた日である。
ロンドンの今の時期は彼の言うとおり雨の日が多く、今日も晴れとはいってもところどころ灰色の雲がかかっていてしかも流れが速い。夜には降り出すかもと予感させる天気だ。とはいえ久しぶりの晴れ間に彼に逢えるのはミランダにとってはうれしいことである。
基本的に金のない二人が昼間に会うときはたいてい公園で、食事に行く費用すら惜しんでミランダ持参のお弁当ランチだが、雨が降るとそれすら惜しんですぐさま安宿に転がり込むことになる。そうなると彼はわりと勝手にことを進めてしまうのでこうしてゆっくり会話する暇はほとんど取れない。
ミランダは彼がしてくれることはたいてい好きなのだが、わけてもその高すぎも低すぎもしない、ちょっと艶のある声質が好きなので、会話にならずとも彼が一方的に続ける他愛も無い話に耳を傾けている時間がいっとう好きなのだ。
しかも今日は珍しいことに彼の故郷についての話である。
普段から自分のことはあまり話さない人だから、ミランダもつい真剣に聞き入っていた。
彼についてミランダが知っていることは驚くほど少ない。どこから来てどこへ行くのか、家族は、友人はいるのか、住んでいるのはどこなのか、そんな基本的なことすら。
これでコイビトなんて変じゃないかと思うことはあるが、それでもティキは毎週のように会いに来てくれるし、(裏組織であるはずの教団の電話番号をどうやって知ったのかが最大の謎なのだが)多いときには3日と空けずに連絡を寄越す。
そのたびに悩む自分はどこへやら、ミランダはやすやすと言いなりになってしまうのだ。
ただでさえ自分のペースに人を乗せるのがうまいティキに、ただでさえ他人に対して卑屈なほど低姿勢なミランダがたちうちできるはずもない。
だから今日もこうして彼にせがまれるまま自分の膝を貸してくつろがせていた。
膝の上の男はまたなんでこんな話したんだろうなぁ、とまだ不思議顔だ。
珍しく晴れているからじゃないですか、とミランダが助け舟を出すと、違ぇよ、そんなんじゃねぇよ、と乱暴な返事。どうやら本気で思い出せないので苛立ってきたらしい。
せっかく聞かせてくれていた話を途中で止められるのは嫌だったので、ミランダは慌ててティキの機嫌を取るに努める。
たまには帰ったりしないんですか? といささか強引に話題を変えるとティキはふと考え込み、しない、と不自然なほど断定的な口調でそう言った。
どうして?との問いにまたしばらく考え込む。
どうやら今までそんな発想、思い浮かんだこともないらしかった。
しばらく、というには空きすぎるほど長い間を置いて、ティキはようやく、
「なぁんにも、ないところだからな」
とぽつりとつぶやいた。
思い出らしい思い出も、帰りを待つ者も、会いたいと思う者も、戻りたい場所も。
ティキにとってそこは生まれ落ちた場所で、それ以上でも以下でもない。いつそこを離れたのかももう記憶は朧で、果たして肉親と呼べる者がいたのかすら思い出せないくらいなのだ。
親。いただろうか。いなかったように思う。ともかく彼が故郷を出たときには一緒ではなかった。それだけは確かだ。
お前は故郷に家族とかいるの、とティキはミランダに問う。
ミランダの返事は、いません、とこれまた簡潔。昔はいましたけど、と続けて笑った表情を見る限り、死に別れたか生き別れたか、とにかくもう会えないことだけは確からしかった。
ティキさんは? と当然のようにミランダが問う。
対するティキの返事も一言。いるよ。
故郷にじゃないけどね、と続け、先を聞きたそうにしているミランダにははぐらかすように笑ってみせた。そして脳裏に思い浮かべる2つの自分とその家族。どちらも失いたくない者たち。そして目の前の彼女もまた。
それ以上は答えてくれないと悟ったミランダが悲しそうな顔になったので、ティキはもっと別のことを話そうと思い出せる限りの記憶をたどる。
とはいえ故郷に関して彼が語れることは驚くほど少ない。故郷を離れてからのことならいくつもあるのだが。例えばモモやイーズたちと会った時のこととか。
もどかしげに黙り込んでいたティキが何事か思いついたように顔を輝かせ、再び口を開いたのはしばらくしてからだった。
そうだ、お前知ってるか。
あの街じゃな、夕陽が海に沈んでいくとこが見えるんだ。
ようやく記憶の底から掘り起こしたその風景は不思議なくらい鮮明な色を帯びていて、ひとたび口にすればどうして忘れていたのかと思うほど、あっさりとティキの脳裏に細部まで蘇っていく。
夕陽がですか? すてきですね。
ミランダの相槌はまんざらおざなりでもない証拠に、こちらを見下ろす瞳がきらきらとあどけない輝きを帯びている。
その表情に後押しされるように、そうだろう、見たことないだろう、と彼は自慢するように言うと、とめどのない話を続けた。
夕陽がさ、海も空気も一面きれーに染め上げるんだ。建物の壁もほとんどが白いからよく映えること。あの時の世界の色はちょっと言葉で説明すんのは無理だなぁ。あの風景ばっかりは他じゃあお目にかかれないね。オレンジってほどはっきりしてなくて、金色ってほど派手じゃなくて。ただ淡いような曖昧なような感じで、そうだなぁ、上等のウィスキー、氷に溶かしたときになんかゆらゆらのぼってくのあるだろ。ああいう感じだよ。琥珀色? ああそうだな近いっちゃぁ近い色かもな。でももうちょっともやもや光ってる感じもするんだよなぁ。
彼の記憶にだけ映っているその色を、なんとかミランダも脳裏に描こうとしてみる。
だが彼女が知っている海や空はどこで見た景色を思い出してみても寒々しい青灰色ばかりでティキの言うような暖色の色相は浮かんでこない。
ティキの方はといえばそんなミランダは知らん、ただ己の記憶を辿りよせてはつらつらと追憶の中に入り込んでしまったかのよう。
あれはどっから見たんだったかなぁ…割と高いとこからだよな。街が見下ろせたんだから。でも背後に高い石の壁があったような気もするなぁ。誰かいっしょにいたっけ。人っこ一人見かけなかったような気もするけど、おかしいなぁ、誰もいないってこたないよな。人が住んでんだから。物売りとか酔っぱらいとかいたはずだよな、覚えてないだけなのかなぁ…あれいくつのときだっけ。国を出たのが十…いやもちっと後か。モモたちと会ったのが十四の時だから……きっと十五年くらい前だよな。思い出せねぇなぁ…なんでかなぁ。国の言葉は話せんのにな。あれそもそもオレどうしてあの国出たんだっけ……。
ティキが言葉を紡いでいくにつけ、ミランダは置き去りにされてしまったかのような淋しさにふと胸苦しさを覚えた。
ティキが語る言葉のどれひとつとしてミランダと共有するものはなくて、それよりももっと淋しいと思うのは、おそらくミランダだけではない、ティキにとってその思い出をともにできる人はどこにもいないのだという事実だった。
思い出せない、なんでだろう、とティキは何度も言う。それに答えを返せる人はどこにもいないのだというそのことを記憶の迷い子になっている彼はまだ気付かないでいる。そのことがどうしようもなく淋しくて。
だんだんつらくなってミランダがうつむくその影が、ティキの頭の上に落ちる。
そして彼は黙り込む。
ミランダの膝の上で、横になりこちらを向かないままで。
彼の中でゆっくりと、陽が、海に落ちていく。
眠っているのだろうか?
長いこと会話のないままに、時は過ぎそろそろ日も傾きだしていた。
公園もおそらくもう閉園の時刻だろう。帰らなければならない。だがティキはさっきから黙ったままぴくりとも動かない。
ティキさん、とそっと囁きかけると閉じられていた瞼がゆるゆると開いた。だがミランダのさらなる呼びかけには反応を示さず、どこか遠くを見ているかのような目はもの憂げに弱く光るだけ。
ティキさん、そろそろ帰りませんか、とミランダが囁くようにうながすと、ようやく視線だけを動かして彼女を見た。
なんでだったかな。
低い呟きでようやく発せられた声はまたしても堂々巡りの問いかけで、答える術を持たないミランダは途方に暮れる。
ティキさん、と泣きそうな声で何度目か分からないその名を呼ばうと、頬を歪めるようにして彼は少し笑った。
ああそういう目すると似てるな、と。
何にですか、という問いかけに、彼は薄く笑ったまま、また瞳を閉じて一言。
あのそらのいろに。
だから思い出したのかもな、という低い呟きがミランダの耳に届いたのは、それからしばらくしてだった。