「ティキさん、イーズちゃんたらすごいんですよ!」
 興奮した様子で白いスケッチブックを振り回しながらミランダが走りよってきたのは、ティキが久しぶりにロンドンの安酒場で飲んだくれて帰ってきたある夜のこと。
 ウェールズの鉱山でしばらく働いて小金の余裕ができたので早速のこと都会に戻ってきて、はや1週間が過ぎようかという頃だった。

 以前のティキならばロンドンに戻ったときまず当てにするのは、仲間の一人であるモモの実家で、彼の家は下宿屋も営んでいたからその一部屋にイーズやクラックともども潜り込むのが常だった。
 だが、ここ数ヶ月はその習慣が崩れている。原因…というか理由は言うまでもなくこの女、ミランダ・ロットーである。
 といっても別に彼女がせがんだわけではなくて、単に彼女が夜遅くまで外出できないことを慮って彼女の職場の近所に宿を求めるようになった、どちらかといえばティキ側の都合による。
 イーストエンドの下町まで出かけて帰るだけで1時間以上、それだけの時間があればもっといろいろできるじゃないかとある意味不埒な思惑がその主たる理由だ。
 とかいってる割にはミランダにイーズを任せっきりにして自分は酒場通いに明け暮れている、その点どうなのかというところだがあいにくと明確にそれを非難できる人間がこの件に関しては誰もいない。
 当事者のミランダが何も言わないのだから余計に図に乗っかって今日も帰ってきたのは、彼女が洗濯と掃除と翌日の朝食の準備を済ませてイーズを寝かしつけ、門限と恋人どちらをとるべきか迷っていたちょうどその時だった。

 さてここでミランダが帰宅を迷っていた本当の理由は、逢瀬の少なさを嘆くよりももうずっと、ティキに相談しようとして果たせずにいることがあったからである。
 数ヶ月前にロンドンの工場で職を得ていたティキから昼の間イーズの面倒を見ていてくれと頼まれて、仲間の目をごまかしつつなんとかそれを請け負っていたのだが、その際暇をもてあましている様子のイーズにいろいろと子供の好きそうなもの(科学班から借りた標本や博物・美術・乗り物などの図版本や画集、慰問先で手に入れた玩具など)を与えていたら、そのうちスケッチブックと色鉛筆に興味を示したらしく、本に載っている絵画や生物画を描き写すようになっていた。
 それが中々の出来映えなのである。子供にしては、いや大人と比べても格段に上手で、生来不器用なミランダなど及びもつかないほどのものを描く。
 この子はもしかしたら天才じゃないかしらとミランダは驚き、だとしたらちゃんとした教育を受けさせてやったほうがいいのではと思い立ったのだ。
 もちろん下層民で、孤児のイーズに学校に通う金など望むべくもないが、教団に相談したら何かいい方法を教えてくれるかもしれないし。
 だからまずは保護者であるティキに話を通さねばと思っているのだが、どうにも機会を得られずに今日まで来ていた。(要するに帰るなり時間を惜しんで事に及ぼうとするティキを防げずにいた訳だ)
 今日こそはなんとしても話をきいてもらわなければ、と固く決意してミランダはイーズを寝かしつけ、ティキの戻りを待っていた。

 帰ってきたティキはほろ酔い加減もいいところだったが、ミランダの話を聞いてまずその酔いも醒めてしまった。
 能天気な彼女は自分の思いつきにすっかり夢中になっていて、まさかティキが反対するとは思ってもいない様子だ。
 だってイーズちゃんが立派な画家さんになったらティキさんもうれしいでしょう、そうでしょうとこちらの機嫌はまったく無視して勝手な将来像を思い描いている。
 そりゃあティキだってイーズがそうなるのがうれしくないわけではない。だがだからといって教団に頼るというのは大問題だ。
 なぜならイーズは何人かのエクソシストに顔を知られている。他でもないティキの関係者としてだ。
 イーズが教団に行けばまずそのことが問題にならないわけはないし、そうするとイーズを連れてきたミランダの立場が悪くなることは必至だろう。悪くなる程度ですむどころか下手をすると即異端審問ということも十分に考えられる。その点どれだけ最悪の想像をしたところで行き過ぎることはないはずだ。
 いまや減りに減ったエクソシストの中に、さらに14番目という火種を抱き込んで、教団はかつてのような一枚岩では在り得ない。内も外も内憂外患のこの時期に、こともあろうにノア一族に関わりのある子供を連れてきた。その一点だけで十分、裏切りの証明となることは疑いない。ミランダ自身預かり知らぬことであったにせよ。
 そしてそれ以前に、こういった事情の全てをミランダに分からせるためには、まずティキの正体が何かということについて彼女自身に明かさねばならない。
 知らず背信の罪を背負った彼女が真実を知ったときの罪悪感は想像に難くなかった。
 教団が彼女を断罪することはティキにとって特に問題ではないが(何故ならどこに囚われようとその救出は彼にはまた容易いことだからだ)、彼女が彼女自身を責め苛むについては彼にはどうしようもない。
 なるべくなら知らずにすませてやりたい。それがいつまでとは彼自身にさえはっきりと答えられないにせよ。
 よって現段階でティキが出来たことはたった一つ。
「くだらんことを考えてないでさっさとやることやらせろよ」と思いっきり不機嫌な声で答えてやることだけだった。
 ところがミランダは今日に限って強情だった。
 ティキさん、ちゃんと考えてあげてください。イーズちゃんの将来のことなんですよと拳を握って食い下がる。
 将来ってお前、俺たちみたいな浮浪民にそんなもん期待するだけ無駄だろ。どうせ同じなんだよ。画家なんて金持ちの道楽息子か学のある人間のすることさ、下層の人間はそんなヤツらと机並べたって馬鹿にされるだけだぜ。いいとこ引き立て役が関の山だ。展覧会なんか見てみろ、それなりの後ろ盾のある人間しか出てないだろ。世の中なんてそんなもんさ。妙な期待をもたせてやるだけ残酷ってもんだろうが。
 乱暴に言い募ってもミランダはそんなことありません、ティエドール元帥がちゃんと見てくれるって言ってましたと迂闊なことを滑らせた。

 すうっと分厚いレンズ越しにティキの眼がせばまる。

 ――ミランダ、お前イーズのこと誰かに言ったの。

 強張った声、察しのいい者ならすぐにわかるだろう彼の酷薄な空気もミランダには分からない。きっとこのまま首を掻ききられても心臓を抜き出されても愚かなこの女は最後までその原因が何なのかわからないに違いない。
 だがミランダは分からないなりに正直だ。嘘をつく理由さえ見つけられていないから。

 いいえ。ただ知り合いの子が描いたって見せたんです。そうしたら。

「ああそう。いいよそんなら」
 するりと殺気を解いてティキはミランダの身体を引き寄せる。
 それよりミランダ、もう帰らないといけないんじゃないの。だったら早くすませようよ、と身に纏うエプロンを解く。
 でも、と逆らおうとしても時間がないのは確かで、口付けられればもう抵抗できないのはいつものことだった。

 ミランダが帰っていった後、普段ならば子供用の寝室から出てこないイーズが珍しくも起きてきた。くわえ煙草のティキの隣に立って、窓ガラスごしに細い背を見送る。しばらく黙ったままその姿が雑踏に消え行くのを確かめた後で、ティキは口を開いた。
「イーズ、お前、絵描きになりたいの」
 それは始めて口にする自身の将来についての話だったかもしれない。
 イーズは炭鉱で働いているときに肺を患った。この時代の子供にはよくあることでたいていは無理してそのままこき使われ、死に至る。
 幸いだったのはその前に彼が炭鉱を逃げ出したことであり、その途中でティキたちに拾われたことだ。とはいえ彼が過酷な職場から遁走したのは別に自身の命がどうとか差し迫ったことを考えたからではなかった。苦しい咳の中でただ己を捨てた母親に一目会いたい思いが募ったからだ。
 ミランダにきっと偉い画家さんになれるわと言われたとき、まず思ったのはそこだった。
「……えらくなったらママが会いに来てくれるかもしれないし……」
 イーズは母親に対し無用な幻想を抱いていない。
 自分を捨てた理由が貧困故であることも概ね予測し、だからこそ自分が金づるであると思えば名乗り出てくれる可能性があると、そう考えていた。それが彼らの生きている世界の現実で、真実だ。
 ティキがミランダに語って聞かせたことも、あながち誤魔化すための言い訳ではない。下層に生きるものは一生下層暮らしと、この国では相場が決まっているのだ。同じ下層にいたはずのミランダがああまで夢を見ていられるのが逆に不思議なくらいだった。
「……ママか……会いたいかイーズ」
 会ってどうする、との問いが言葉の裏にある、イーズは察しのいい子供だからすぐそれに気づいた。
「わかんない……でも会ってみたらわかるかも……」
 憎んで別れるか、許して共にいるか。多分そのどちらかだろう。
 でも会えないことにはなにも進まない。結局そのときになってみないと分からない。
 そうイーズがもどかしげに告げた言葉に、ティキは随分考え込んでいた。
 窓辺に立ったまま、細い影の消えた通りに影絵のような人々が行き交い、やがてそれさえ暗闇の中、ほのかな街燈の灯りに沈んでいくまで、ずっと。

 ミランダはその後数日してまたやってきた。
 相変わらずイーズのことを諦めていないらしく、ティキに相談を持ちかけていたが、意外にもティキは先日のように邪険にしたりせず、黙って最後まで彼女の言い分を聞いた挙句、イーズがいいんなら、と答えたので、ミランダはもとよりイーズ自身も随分驚いた。
 だからミランダが浮かれて帰っていった後で、つまらなそうな顔で椅子に足を投げ出して座るティキに、ほんとにいいの、と問い掛けみた。案の定、ティキは正直困るんだけどな、と苦りきった顔で笑った。
「でもまあ、お前の言うことにも一理あるよな。そのときになってみなきゃ答えが出せんことってあるもんさ。延ばし延ばしにしててもしょうがないし。……オレもそろそろ進退決めなきゃならんってことだ」
「進退って? ティキ、僕がミランダと行ったら困ることあるの」
「うん……まぁなあ……」
 煮え切らないティキはなおのこと珍しい。
 イーズはじっと彼を見上げて返事を待った。
 そうすると、ティキは頭をかきかき、なんとか彼に分かりやすく事情を説明してくれた。
「あのな、オレが秘密のバイトに行ってるのは知ってるだろ。ミランダの職場はなぁ……そのバイト先の……なんていうか商売敵みたいなとこなんだよ。オレのこと知ってるヤツらもいてさ。ほら、お前以前銀のボタンつけた黒い服の連中と列車で会ったことあるだろう。アイツらだよ。だからオレとミランダが仲がいいってわかったら、ミランダのヤツもちぃっとばかし気まずい思いするかもしれねぇんだわ。悪くすると職場クビになっちまうかもなんだよ。ま、そうなったらそうなったでオレはかまわないんだけども。ミランダのやつは多分随分悲しがるかなぁ……そしたらオレたちの仲も終わりかもしれん。や、オレはそうするつもりはないんだけどミランダのやつはなあ……真面目すぎるっつーか馬鹿正直だからきっと自分ばっか責めるだろうしなぁ……」
 ま、それもそんときになってみなきゃ分からんってことだよな、とティキがしめくくった話をイーズはイーズなりに真剣に聞いて検討した。
 した結果、翌日やってきたミランダに「僕、やっぱり行きたくない。画家になるより鉱山頭になっていっぱい銀を掘りたいんだ」と言って断ったので、彼女は随分がっかりし、ティキによって大いに慰められることとなったのだった。

「しかしイーズ、お前ほんとによかったの」
 例によってミランダが門限ぎりぎりに焦って帰っていくのを見送って、ティキは養い子に問い掛けた。
 彼の中では幾分覚悟を決めかけていた話だったのでイーズ自身が断るとは思ってもいなかったのだ。
「いいんだ……別に画家にならなくてもママに会うチャンスは他にもあると思うし……」
 それよりも、とイーズが続けた言葉は、さしものティキを絶句させるほど残酷な、残酷すぎる真実だった。

「僕がママに会えるチャンスはこの先いくらでもあるだろうけど、ティキにお嫁さんが来てくれる確率はそれよりずっと少ないだろうと思うんだ……」

 だから僕のせいでミランダと会えなくなったりしたら困るもんね、と子供らしからぬ口調でこちらを見るイーズの笑顔はどうみても、哀れな独身男に対する憐憫交じりの優しさに満ち溢れていた。
 今日のこの日まで彼女に対する己が優位を確信して疑っていなかった男は、そのとき始めて養い子の情け容赦ない評価を知り、己の行く末を真剣に検討しなおしたという。