シェリル・キャメロットは新たに一族として覚醒したポルトガルの浮浪児上がりの青年を、公的にも自分の弟として遇するにあたっていくつかの思案を巡らした。
連れて来られたときにはよれたシャツに伸び放題の無精髭、いつ梳かしたのか分からぬような頭垢だらけの髪と、思わず目を背けたくなるような有様だったものを召使いが総出で磨きあげた結果、見映についてはかなり有望株であることが判明した。その点はまことに喜ばしいことだったが、問題は中身である。
生まれついての流れ者、英国では労働者階級でも底辺に属する彼に紳士らしい振る舞いだの教養だのは望むべくもないし、何より本人に全くその気がなかったものだから、いくら領地を与え、爵位をもって遇そうともいきなり社交界に連れて行って弟ですと紹介するにはかなりの難があった。
成人した今更の年になって家庭教師だのパブリックスクールだのに放り込むわけにもいかず、またそんな付け焼き刃の知識だけで渡っていけるほど上流社会の底は浅くない。
従ってこの場合もっともよい解決策としてシェリルが採択したのは、有能な従僕を雇うことだった。
ただ言われたことに忠実であるだけならばAKUMAで十分であるが、今シェリルが必要としているのは場合によっては主人であるティキよりも正しく確固たる意見を持つ従僕だ。右も左も分からぬ俄貴族の弟を正しく、ジェントルマンの道に導ける人間である。それはAKUMAでは事足りない。
賢明で忠実で口が堅く、世事と社交に通じ機転が利き、控えめで目立たずなおかつ主人に恥をかかせぬ程度に一歩先を行ける、そんな奇跡のような使用人。
信じ難いことだが19世紀末の英国にはそんなプロフェッショナルを極めた家事使用人が存在したのである。もちろん、極めて希少であることは言うまでもないが。
英国きっての名門キャメロット家の名にかけて、シェリルはそんな従僕を選びに選びぬいた。
そうして彼の目に叶った唯一の従僕、ヘンリー・バロウズがティキ・ミック卿の元を訪れたのは、とある冬も終わりに近づいた、英国には珍しく太陽が雲間から顔をのぞかせている午後のことだった。
ヘンリー・バロウズは生粋の英国人である。
生まれはウェールズのとある小さな村、12歳で近隣の貴族の家に雇われ、以来いくつかの屋敷を渡り歩きながら20年近くを順調に使用人として働いた。22歳でフットマンになり、最終的にはもう少しで執事も夢ではないというところまでいったのだから使用人としてはかなり有能と言ってよい。
30代半ばで結婚のため職を辞し、ロンドンで店を持った。それなりに繁盛し生活は安定したが子供には恵まれなかった。
そして半年前、妻が死んだと当時に店を畳み、かつて仕えていた主人の推薦でシェリル・キャメロットの求人に応じた。
順風満帆とは言えないまでもそれなりに幸福で平凡な人生を歩んできたとそう自分では思っている、そんな男だった。
そんな彼がはじめて彼の仕えるべき主人に会った時、その男は額に手を当て歯ぎしりしながらソファに寝っ転がっていた。
二日酔いだ畜生と唸るように呟き、本日よりお仕え致しますとの彼の言葉にも
「ああ勝手にしてくれ。全く畜生、嫌みなくらい晴れた日じゃねぇか、まことにご機嫌宜しゅう今日もいいお日和で何よりですねってんだ。社交なんざクソくらえ!あんなお上品な酒に付き合ってたら身体がどうかしちまわぁ。どうせならエールをジョッキでいっぱいもってこいってんだ」
とまこと紳士らしからぬ悪態を繰り返すばかりだった。
ヘンリーは己の職責を十二分に心得ていたから、まず慇懃な一礼をし、それからキッチンに向かった。
しばらくしてティキの前に現われたときには銀の盆の上に、何か異様な匂いのするグラスを捧げ持っていた。
「どうぞ、お試しください」
勧めたヘンリー自身が驚いたことに、この恐るべき異臭にもティキは躊躇わなかった。
グラスを取り、一口、口にする。
そして少し小首をかしげたが、そのまま一息に残りを飲み干した。
この反応にヘンリーはさらに驚く。
たいていの人間はこの二日酔い醒しの飲み物を、一口飲んで吐き出すか死にそうな顔をするかのどちらかだからだ。
ティキの反応にヘンリーはまず彼の味覚異常を疑ったが、飲み干した後彼が、
「ああまずかった。死にそうにまずいよなこれ。よく効くけど。」
と言ったからにはその怖れはなさそうだった。
ぺろりと口の周りを舐めると、彼の主人は改めて彼を見てこう言った。
「あんたドイツ人?」
この問いかけに再度ヘンリーは瞠目する。だが、それを顔に出すことなく聞かれたことに忠実に答えた。
「いいえ。生まれも育ちもこちらで」
こちら、というのは英国という意味だ。
その返事にふうん、とティキは不思議そうな顔をする。
客観的に見てもかなりの美男子だ。シェリル・キャメロット卿が梃入れを考えるのも無理はない。これでそれなりの礼儀作法を覚えれば社交界の御婦人方が放ってはおかないだろう。
そんなヘンリーの観察を余所に、主人の方はまだ納得しかねるような顔をしている。
ドイツ人かとの問いに、思い当たる節のあるヘンリーは隠さず続けた。
「連れ合いがドイツの出でした」
「連れ合い…?」
耳慣れぬ言葉なのか、一瞬戸惑った顔をした彼だったがすぐに合点がいったように破顔する。
「ああ、奥さんね。結婚してるのあんた」
「はい。半年前までは」
「別れたの?」
随分個人的なことをずけずけと聞いてくる。このあたりが彼の兄が育ちを憂う所以だろう。一瞬注意しようかと思ったがあまりにも悪気のない笑顔につい正直に答えていた。
「いえ流行病で」
「ああ……そっか。悪いこと聞いたな」
「いえ」
しばしの沈黙が落ちる。手の中のグラスを弄んでいたティキが思い出したように彼の捧げ持つ盆の上にそれを返した。
「今日から宜しくな」
その一言で彼は、ティキ・ミックという男に仕える許可を得たのだと知った。
ティキ・ミックは全く持って自由奔放であり、かつ怠惰な男であった。
だが仕えるべき主人としてはそう悪くはない、とヘンリーは思っている。
この放蕩者に仕えるにあたり、彼は彼を直接雇ったシェリル・キャメロットから重々に言い聞かされていた。
いわく。
彼の役目は、ティキが家にいる時に限って、紳士らしい振る舞いと生活をさせること。
よって彼のすべきことは山のようにあった。ふさわしい衣服を選び、食事の作法に目を配り、社交のルールを教え、他家の事情に通じ、彼の代わりに手紙や招待状の返事を書き、ふさわしからぬ生活習慣を改めさせる。場合によっては出過ぎかと思われるような言葉や態度を取らざるを得ないこともあった。だがティキは概ね彼の意見を尊重し、彼の勧める通りに振る舞った。
貴族としてのティキはほとんど彼の操り人形に等しかったが、ヘンリーは主人がそんなやわな人間ではないことをよく承知していた。従順に振る舞うその裏には明らかにヘンリーの采配振りを面白がっているような態度が見て取れるからだ。与えられた役柄をこなしながら演出家のお手並みを拝見する名役者のように。
考えることの全てをヘンリーに任せきりにし、自分では全く何ひとつ処理しない。
呆れるほどの怠惰さを露呈しつつ、けれどいざというときの機転は彼をはっとさせるほど鮮やかだ。
ティキ・ミックという男は確かに貴族らしい教養や作法には劣るものの、人間の機微を図り、場の空気を読むという点において見事なまでの社交感覚を備えていた。こればかりは身につけようと思ってつくものではないと、ヘンリーはひそかに舌を巻いていた。
かように不満など持ちようもない主人ではあったが、たったひとつだけ改まることのない悪癖があった。
あれほど怠惰な男が、月に何度かの割合で黙って家を空けるのである。
短いときは3日ほどで帰ってくるが、長くなると一ヵ月丸々行方知れずになったりする。
どこに行っていたのか聞いてものらりくらりと躱すだけ。
最初は兄であるシェリル卿の用事かと思っていたがどうやらそういうわけでもないらしい。
しかしながらその点についてはシェリルから事前に釘を刺されていることでもあった。
雇われるにあたってヘンリーの役目はたった一つ。
『家にいる限りは』紳士らしく貴族らしくさせること。
つまり家に――ロンドンのタウンハウス、領地のマナーハウス含めて――ヘンリーの目の届くところにいる間だけ、ティキは彼の意のままの、そして理想通りの上流貴族なのである。
それ以外の時間、彼がどこで何をしているかは穿鑿しない。――してはならない。
ヘンリー・バロウズは優秀な従僕である。シェリル・キャメロットの言葉が何を意味しているのか、その裏の意味も含めて彼は正確に理解していた。
ティキが例によっての気まぐれで姿を消して3週間が経とうとしていた。
仕えてより後、何度目か分からぬ主の不在期間を、ヘンリーは正確に自室のカレンダーに記している。
赤い×印は不在期間。ここ最近は特に多い。というかもはやここにいない期間の方が長くなりつつある。
これではいけない。次に帰ってきたらやはり一度はお諌めするべきだろうと彼は思う。
領地の経営も家の管理も彼に任されきりなのだ。
基本的に本来それらは「スチュワード(家令)」と呼ばれる上級使用人の役目のはずなのだが、ティキはそういった人間を雇っていない。バトラー(執事)すらいないのだからティキが所有する領地の規模から言えばそれは異常な事態と言えた。自然全ての役割をヘンリーが担っている。
最近では全ての使用人が彼に頼りきりで、これでは誰が主人かわからない。せめて領地経営にはもっと身を入れてもらわなければ。
そう思っていた矢先、取引先の保険会社から所有する鉱山株の配当の件で電話があった。
主不在となれば彼が行かざるを得ない。紳士とは言わぬまでもそれなりの格好をしてシティに出る。
幸い用はすぐ済んだが、今から戻れば夕刻には戻れるだろうと向かったチャリング・クロスの駅で彼は思わぬ待ちぼうけを喰わされる羽目になった。なにか大きな事故があったとかで列車の運行が大幅に遅れてしまったのだ。結果宙に浮くこととなった1時間ほどの時間を、しかたなく彼は駅前通りのコーヒーハウスで過ごすことにした。
チャリング・クロスはロンドンのほぼ中心に位置する。
夕刻間際となってさらに人通りも多く、勤め人、貴族、荷馬車や物売り、あらゆる階層の人間が行き交う。ぼんやりと眺めながらそういえばかつて自分が開いていた店もこの近くにあったことを思い出した。
ほんの数年前のことなのに、もう10年も経ってしまったような気がするなと彼は苦笑を浮かべる。
妻と二人で住んだ町。この通りを二人でいっしょに買い物に出かけたこともあった。夕陽が空気をやわらかく染め上げるこの時刻、二人で腕を組んで歩いた。妻は左に籠を下げ、右手を彼の腕に掛けて、彼が何か言うと妻がおかしそうに笑う。そうちょうど今目の前を通っていった若い夫婦連れのように……。
見るともなくその姿を目で追っていた彼が、ふいに椅子を蹴立てて立ち上がった。何事かと驚く人々に構わず、数ペンスを店員に投げると外に飛び出す。
見間違えるはずがなかった。
人いきれの向こうに消えていくその背中。毎日のように着替えを手伝い、間近で見てきたあの肩幅。
今、彼はよれた木綿のシャツをまとい、汚れ、すり切れたデニムのズボンをサスペンダーで釣っただけの粗末な労働者階級そのままの姿だった。そしてその右腕に手を絡ませともに歩いている黒い粗末なドレスの女性。彼は何事か彼女に話しかけ、彼女は恥ずかしそうに彼を見上げ笑いかける。その面差しは驚くほどかつての彼の妻に似ていた。
黄昏の色に染まったフィルター越し、何か悪い夢でも見ているのかと彼は疑う。
それはかつての彼の、幸福だった頃の姿だった。
『奥さん、ドイツ人?』
『はい。以前勤め先で知り合いまして』
『てことは使用人?』
『キッチンメイドでした』
『ふうん。なんで仕事辞めたの』
『使用人同士の結婚は禁じられておりましたので』
『ああそうなんだ……仕事か結婚かなのか……それでも結婚したんだ』
『まあ……そういうことになります』
『幸せだった?』
『…………少なくとも後悔はしておりません』
『そう………あんた気に入ったよ、バロウズ。今日から宜しくな』
宜しくな。
その一言で何もかもを彼に放り投げていった主の姿が黄昏の街の向こうに消えていくのを、彼は呆然と見送っていた。
以来数十年、彼の身代わりにミック候を名乗ることになってより後も、ヘンリー・バロウズは一度も彼に会っていない。