古い教団から新しい教団へ。
新居に引っ越すに当たっていちばんの功労者がバク支部長であることは、”あの”大騒動(COMIC17巻参照)を知る者にとっては周知の事実であろう。だが、本来の目的として彼が呼ばれたのはコムイの作った怪しげな薬の後始末のためなんかではもちろん、なかった。
コムイもコムイで自分のしでかしたことをしれっと棚に上げて「早く仕事やっちゃってよ」などと偉そうに抜かすものだから、「俺は知らん、もう帰る!」と何度口走りかけたかしれないが、教団移転にあたって彼が呼ばれたのは、余人には決して任せられない重大かつ深淵な目的あってのことである。
新しく教団本部となった箱船はもともと伯爵とノア一族が所有していただけあって、随所に魔術的な仕掛けがほどこされ、その扱いにも慎重を要する。科学の分野ではコムイ・リーに後塵を拝するものの、魔術的知識にかけては彼、バク・チャンの方に一日の長があった。
箱船は奏者であるアレン・ウォーカーにしか操縦できないものだが、彼は魔術的なことについては素人に等しい。彼の師匠であるはずのクロス・マリアン自身は優秀かつ希有な才能を有する魔導士だが、悲しいかな彼が弟子に自発的に教えたことといえば悪魔退治の他には賭博のイカサマくらいであった。
資格はあっても知識がない、アレンの補佐として、コムイではなくバク・チャンを呼んだのはまこと中央本部にしては適切な人選であるだろう。
さてその高名な魔術の専門家バク支部長が、新しい教団にやってきて開口一番アレンに申しつけたのは「温泉はどこにある?!」との一言であった。
その第一声をを聞いた時、アレンはまずまず相手の顔を3秒は凝視したままだったと思う。
アジア支部で多くの時間を過ごした経験から、彼はバク・チャン支部長の人となりを多少は理解しているつもりだ。
この支部長は彼の知る限り、教団内では珍しくもかなりの常識人で、常識人すぎるが故に気の毒な目に合うタイプの典型であった。だからアレンは相手の最初の一言を、おそらくは自分の聞き間違いであろうと判断した。だから待った。じれた彼がもう一度同じせりふを繰り返してくれるのをじっと待った。
果たして余人よりもせっかちな性分の彼はすぐに繰り返してくれた。
即ちアレンが最初に聞いたのと全く同じ台詞を。
「温泉はどこなのか」と。
「…ええと、温泉、とおっしゃいましたか。僕の聞き間違いではないんですよね。確かに支部長は今、温泉と」
「言った。それでどこにあるんだ温泉は」
さも当たり前のように基本上から目線の男が言う。
そう問われてもアレンとしては答えに窮するしかない。
というかやってきて一番に確認することがそれなのか。確か彼が呼ばれたのは自分の魔術的補佐としてだと聞いていたのだが違っていたのか。居住環境への配慮は当然のこととしてもそれで一番に気にするのはそこなのか。電力とか水周りとか通信環境の整備とかそういうところを一足飛びに飛び越えた結果でそこなのか。それとも自分の知らないなにか魔術的な隠語で「温泉」に値する言葉があるのか。それで支部長は彼が知っていて当然のこととして会話を試みているのか。だとしたら師匠の怠慢だ。あの男がもうちょっと自分の教育に気を配っていてくれたらこんな基本的なことも知らないのかと彼を呆れさせずに済んだのだ。やっぱりそうだあの男が悪いのだ。何せあの男はアレンに関わるすべての諸悪の根元だからそうにちがいない。
幼い頃より何度繰り返したかわからない結論に今度もまた同じくらいの速度で到達したアレンは、心の中で敬愛すべき師を百度滅多切りにし墓穴まで掘ってきっちり埋めた後でにこやかに笑って辛抱強く待ってくれた人のよいアジア支部長に問いかけた。
「ええと、すみません。僕の無知をさらすようで申し訳ないのですが、支部長のおっしゃる温泉というのはなんでしょうか。何か魔術的な意味合いのある…」
「いやない。温泉と言えば温泉だ。…ひょっとして君は温泉が何か知らないのか?」
初めて不安そうにこちらの様子をうかがう支部長にアレンはあわてて首を振ってみせた。
「いえ知ってます。それが何かは知ってます。そうですか、温泉ですか。ええと支部長は温泉がご入り用ですか。この箱船に温泉が」
「そうだ。当たり前だろう?」
「当たり前…なんですか?」
「当たり前だ」
そうまで断じられてはアレンとしてははあそうですかという他ない。
そういえば古い教団にも確かに温泉はあった。
傷の治りにも効果があると聞き、さすがは教団、福利厚生にも気を配っているんだなと感心していたものだが、それがさほど重要な意味を帯びているとは考えたこともなかった。
だがさて困った。この箱船にはそんなものはない。なくて当然である。なにしろ宙に浮いているのだ。温泉など堀り当てようにも掘るべき地面はどこにもない。
この後に及んでもまだアレンの返答を辛抱強く待ってくれている支部長の大真面目な顔を眺め、アレンはなんとなく申し訳ない気持ちになりながらそのことを告げた。
「入浴設備ということなら各部屋にそれなりのものが用意してありますが」と。
それを聞いたときの支部長の驚愕はただ事ではなかった。なにもそこまで驚かなくてもと言うくらい大げさに叫びたてるや呆気にとられるアレンを置き去りに、コムイのところに怒鳴り込んでいった。
筋道から考えれば箱船の設備について彼に文句を言ったところでどうしようもあるまいと思うのだが。
アレンにとっての諸悪の根元がクロス・マリアンであるならバク支部長にとってのそれはコムイ・リーであるらしい。まあそれについては同意できなくもないなとアレンはとりあえずその問題については棚上げし、他に抱える様々な依頼事項を優先させるべく、まずはヘブラスカの元に向かった。
「居心地はどうですか、ヘブラスカさん」
「ああ悪くない。前より広いし、明るさもちょうどよい」
ヘブラスカはアレンの気遣いにともあれ好意的な答えを返してくれた。
教団の非常識な面々からの突拍子もない依頼に悩まされるアレンとしては、この女性の「普通さ」にとても救われる思いがする。
彼女はなんといっても教団一の古株エクソシスト、コムイとは別の意味で優先順位の高い存在である。けれど天才は変人の顕現のような室長と違い、彼に無理難題を押しつけたりもしないし、非常識な依頼もしない。ただ存在形態自体が「普通」からかなり逸脱しているためにうっかりするとこちらの普通と彼女の普通が大きく食い違うときがあったりする。
たとえば明るさもちょうどよい、と彼女は言ったがアレンにとってもみればこんな薄暗い場所で暮らしていて気が滅入ったりしないんだろうかと思うくらいだ。
だが彼女はこのくらいが思索にはちょうどいいと言い、もっと明るくしようかというアレンの申し出を丁重に退けた。
「ところでバク・チャンがきていたようだが」
自身のことでそれ以上アレンを悩ませたりせず、ヘブラスカは話題を変えた。
「ええ、引っ越しの手伝いに…というより僕の補佐としてだそうですが。なんだか意志の疎通がはかりがたくて困りました。魔術に長けた人の常識というのはやっぱりちょっと違うんでしょうかね」
「ひょっとして温泉のことか。箱船にはそんなものはないだろうから問題になるだろうとは思っていたんだが」
ヘブラスカまでもがそれを気にしていたとは思わずアレンは思わず目を見開く。驚く彼の表情に無理もないと同情のため息をもらし、ヘブラスカは古い記憶をたぐり寄せた。
「最初に教団を建てるときも、それは大もめしたからな。最初は中央庁近くのイタリアに建てる予定だったものを、エプスタインと二人して直訴にいったりして」
「そうなんですか」
エプスタインといえば今の北米支部長の祖先にあたる人だ。バク・チャンの祖先にあたる魔術師とともに教団初期の双璧と云われた人物らしい。
「どちらもドイツ系魔術師だったからなぁ。温泉は外せないのだろう」
「はあ。ドイツの魔術師だと温泉が大事なんですか?魔力の源とか?」
「……どうだろうか。あのときも私はそこまでこだわらなくてもとは思っていたんだが。何せ二人がかりで温泉温泉と連呼していたから、強くは言い出せなくて」
と邂逅にふける彼女はついでに滅多に余人に語ったことのない教団設立当初の事情を説明してくれた。
先に述べたように教団設立の立役者は、バク・チャンとエプスタインの祖先にあたる二人の魔術師である。初のイノセンス適合者となったヘブラスカは、実際イノセンスの他は何も持たないただの平凡な女性であった(今の形態はともかくとして)。ために教団の実際的な運営はほとんど二人の魔術師が計画し、交渉し、実現させたと言ってよい。その二人の出自はともにドイツ系、チャン家の始祖はガリア・ケルトのドルイドを祖に持つ魔術師であり、エプスタイン家はその名が示すとおり、ユダヤ・カバラ系魔術を得意とする一派だった。
どちらの魔術にも共通するのは自然崇拝に端を発するいわば土着系の魔術が基本になっていることである。故に二人の共通の認識として一致していたのは、教団本部はもっとも魔術的な地脈の強い場所に建てるのがふさわしい、ということであった。
「よい地脈の通じるところ、よい温泉あり!」というのは、だからといって随分な極論ではないかと当時関係各位の誰もが疑問に思ったが、当代きっての魔術の専門家が二人がかりで頑強に言い張ることを表だって反論できる者など誰もおらず、結局「あの温泉はラジウムの濃度がどうたら」とか「あの地は5つもの温泉に囲まれていていざというときの待避場所としても」とか温泉探しに狂奔する二人を止めることはできないまま、さりとて中央本部も最終的な決定権を盾に最後の意地を見せ、政治的な思惑もさりげなく考慮された結果、二人が強力に押していたプロテスタントの巣窟ドイツ・ケルン地方の某所ではなく当時はまだカトリックの影響力の強かった英国の、湖水地方の某所に落ち着いたというわけだった。
「私としてはまあ助かった。なんといっても生まれた国から出ずにすんだから」
とヘブラスカは感慨深げに言い、「今回ももめるかもしれないがまあなんとか善処してやってくれ」とアレンが初めて返答に困る頼みごとをした。
「…やっぱり必要なんですかねぇ、温泉」
「……どうだろうな。地脈がどうとか言ってはいたが…」
本当は好きなだけだったんじゃないかな、と当時は決して言えなかった本音をもらし、農民出身の聖女は苦笑した。
ともあれ温泉である。
アレンとしてはコムイがバク・チャンがなんとわめこうと痛くもかゆくもないがヘブラスカにとりなされると何となく弱い。
どうしようかなぁ、どうにかなるかなぁと頭をひねっていると、前方から派手な物音が響き、大量の本とともに女の人が降ってきた。
慣れているアレンはすぐさま自身のイノセンスで彼女と本を同時にくるみ込んですくい上げる。
果たしてミランダ・ロットーはいつものごとくコメツキバッタのように頭を下げてアレンに陳謝と感謝を交互に繰り返した。
これも常のことなのでアレンは相手の気持ちを傷つけないよう、さりげなくそれを遮ると、そういえば彼女もドイツ人だったなと先ほどから気になっていた問題をもちかけた。
「そういえばミランダさん、ミランダさんは温泉お好きですか?」と。
「え、温泉…」
突然の話題転換に彼女は戸惑ったようだった。
「ええ。ミランダさんはドイツの人ですよね。ちょっと小耳に挟んだんですが、ドイツの人はみんな温泉が好きなんでしょうか?」
アレンとしてはちょっとした興味、くらいで聞いてみたことだったが、その途端ミランダが普段から血の気の薄い顔をさらに蒼白にし、がたがた震えだしたものだから、この日何度目になるかわからない驚愕に目を見張った。
「ちょ、ちょっとどうしたんですかミランダさん!? ミランダさん、大丈夫ですか?」
「いいいいいえ、なんでもないわあれんくんだいじょうぶよ」
そういわれても明らかに態度がおかしい。彼女の日常として慌てふためく様は珍しくないが、それを隠そうとして隠しきれずにいる様子は常ならぬ事だ。
「ミランダさん?」
アレンの再度の問いかけに、ミランダはうつろに目を泳がせながらも「なんでもないのほんとうよ」と明らかな嘘をついた。
「ああああのね、アレン君、温泉てあの温泉よね。地面からお湯が出てくるあの温泉よね」
「ええと他に温泉にあたる言葉がなければそうです。ミランダさんひょっとして何かご存じなんですか? 僕はあいにく知らないんですがドイツの方では温泉というと何かもっと他の意味合いがあったりするんでしょうか?」
アレンの問いに、震えながらもミランダはじっと、彼を凝視する。何かしらこちらの真意を疑っているような視線はこれまた善良な彼女にしては珍しいことだ。
「ミランダさん? どうかしましたか?」
全く他意はないんですよ、と態度で示すアレンの再度の問いかけにミランダはおそるおそる何か重大な秘め事を明かすときのように上目遣いに声をこごめた。
「あの…アレンくん何か……聞いた? あの、あの人から…その…」
「あの人?」
もちろんアレンに心当たりなどあるはずがない。ただあの人、というのがニュアンスとしてこの教団の人間ではなく、かつまたミランダと彼にとってさほど他人ではない相手──そして彼の直感としてそれはおそらく男である──と知れた。
故郷にいた頃の誰かだろうかと思い返すがあの町でそれに値する知り合いはいないしとアレンは首をひねるばかりだ。
そんな彼の態度にミランダはようやっと彼への疑いを解いた模様で、「知らないならいいの。気にしないで」と無理矢理にも笑ってみせてくれた。
そして小声ながらもアレンの最初の問いにはこう答えてくれた。
「あのね、アレンくん…私、あんまりその、好きじゃないわ。温泉は。いえ温泉自体は……いいとは思うんだけど。でもできれば……ない方がうれしいわこの場所には」
と半ば涙ながらに懇願され、女性二人から相反するお願いを頼まれることとなってしまったアレンの頭を大いに悩ませた。
結果として言うまでもないことだが、サードエクソシストとともに来襲したエプスタイン支部長の参戦によって、新しい箱船には、結局温泉が誘致されてしまうこととなった。
ミランダのささやかすぎる抵抗などあの女傑の前に太刀打ちできるはずもなく、アレンとしても騎士道精神の大いに痛むところながら、逆らうことはやっぱりできなかった。この点彼も我が身がかわいかったのだと言えば、反論の余地はない。
せめても新しい温泉は小さな怪我の絶えない彼女によく効くようにとの配慮は込めたものの、ミランダ・ロットーがその温泉を利用しているとの話はついぞ聞かない。