ミランダ・ロットーが失踪した。
否、失踪というか、駆け落ちした。
相手はこともあろうにノアである。
開いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。
実際、事実を知った誰もが絶句し、まさかと何度も確認し、おかげで次の手を打つのがかなり出遅れる羽目になった。
というか誰も彼ももう使いものにならなかった。ミランダ・ロットーを知っている者はとにかく全員そうなった。
総責任者のコムイですら「えっ…うそぉ……」と言ったきり座ったまま気を失うという芸当をやってのけたから(もちろん連日連夜不眠不休の激務に心身ともに限界がきていたことは考慮するべきだが)、それ以外の者についてはなおさらだ。
あのブックマンも、あの私情をいっさい廃して世界を記録することだけを生き甲斐にしているはずのブックマンの後継者も、髪を振り乱し「嘘だぁあああああああああ」と箱船のてっぺんで絶叫していたがあんなことで次のブックマンが務まるのだろうか。
まあ自分には関係ないことだからどうでもいいが。
ドライに切り捨ててブリジット・フェイ女史は報告書をめくる。
前述の通り、総責任者および関係各位の誰も彼もが使い物にならなくなってしまった今回の件の事後処理について、中央庁に戻っていたルベリエ長官から正式に委任されたからだ。
報告書自体は何度も読みこなしてもうすっかり暗記しているから今更目を通す必要などないのだが、それにしても何度読んでも理解に苦しむ。
エクソシストがノアにという点を差し引いたとしても、これはないだろうと思う。
まあ見るからにお馬鹿さんだったからこんな馬鹿な真似をしでかすのかもしれないけれど。
現在、とりあえずの潜伏先らしい場所がカリブ海沖合の小さな島と判明し、そちらまで船で向かっているところである。
事務仕事専門で過ごしてきた彼女だが、順当にキャリアを積んで地位が上がればやる仕事の内容も多岐に渡ってくる。それなりの護身術もマスターしているので、カリブ海近辺が政情不安であると聞かされても別に気にしなかった。
とはいえ相手が相手だけに危険も大きかろうということでクラウド・ナイン元帥と数名のファインダーがともに同行していた。
主領国であるフランスから入国許可を得ての航路上、ブリジットは途中ポルトガルから寄港してきた同年齢とおぼしき女性と相席になった。
黒髪にパンツスーツのきりっとした出で立ちの女性は、美人ながらも男を寄せ付けぬ雰囲気を持ち、明らかに「できる女」然とした雰囲気を醸し出していた。
手にした報告書の中でおどおどした眼差しを向ける愚かな女とは大違いだ。ためにブリジットは彼女に好感を持った。感情をきわめて抑えたその表情の中に、わずかな苛立ちを──おそらくは自分と同じく意に添わぬ任務を命じられて従っている──感じとったのも、おそらくはこの女性が自分と同類に近いと判断したが故だ。
だがここであからさまに友情を求めるほど迂闊な彼女ではない。
つとめてビジネスライクに一線を引いた笑顔で、相対する。
相手の事情も自分の事情も当たり障りない会話の中でのこととして深くはつっこまない。
まずは簡単な時候の挨拶と向かう先に関する政治的な話題や気候などの情報交換をしあい、その後の流れとして、ところであの島へはお仕事で?ということになった。
「ええまあお恥ずかしい話ですがちょっとした部下の不始末でして」
「おやそちらもですか」
「ということは貴方も」
「ええこちらは部下ではなくて身内なのですが」
「なるほどどこにでも困った親族というのはいるものですね」
「全くです。常々何か問題をおこしそうな人間だとは思っていたのですが、よりにもよってというか」
「こちらもです。明らかに職務に適性を欠いている人間だったのですがまさかこんなことでというか」
「今更どうでもかまいませんが、こちらに迷惑をかけてくれるなと言いたいですね」
「ええ。どうせなら周囲にわからないようにやればよかったものを、ことさら置き手紙なんかしていくものだから面倒事が増えて」
自身の身にふりかかった災難の元凶について延々と語り合う二人に、背後から近づいてきた女が声をかけた。
「ブリジット」
「ミス・ナイン。何か?」
元帥、という言葉を避けてブリジットが振り返ると、常から冷静さを崩さぬ女性元帥が彼女らの席の真向かいに腰を下ろした。
「そろそろ船が着くそうだ。準備した方がいいな。……それと」
言ってブリジットの左に座る女性に視線を向ける。
「久しぶりだな。ノア」
その言葉に受けた衝撃を、ブリジットは隠しきれなかった。
思わず投げた視線の先、先ほどまで白かった女性の肌が、あり得ない色に変化しているのを目にする。
なんという迂闊な。
知らずとはいえノアと語り合っていたとは、と唇を噛むブリジットを、クラウド・ナインが落ち着けと目で制した。
「お前も身内の後始末か。大変だな」
正体を知りつつ冷静に対処するクラウドの剛胆さは実戦屋ならではの経験に裏打ちされている。
すなわちここでやり合う気は相手にもないはずだと。
「ええ…本来ならここで全員始末してもいいはずなんですがね…」
「さすがのお前も兄弟とやり合う体力は残しておきたいか」
「そういうことです」
そしてそれはそちらも同じだろう、と視線に意味を込めこちらを見返す瞳は先の金色から、元の緑に戻っている。
「まあな。あの男がどれほどのものか私は直接やり合っていないから知らないが。仮にもノアだ。それなりの実力はあるんだろう?」
「それなり?甘く見られたものですね。あれの能力はやっかいですよ。隙を突いてもやれるかどうか」
「こちらもだ。何せかりそめとはいえ時間を操る能力だからな。うっかりすると見ているものが現実かどうかの区別がつかん。目くらましという点では完璧だろう。何せ発動範囲が本人以外予測不能だからな」
「元帥! それは機密事項で……!」
ブリジットの言葉をクラウドは手を挙げるだけで制した。
「ノア。いろいろ言いたいことはあるが、ここはお互い黙否ということでいこうじゃないか。この船を降りたらここでのことは忘れる。どうだ?」
「……いいでしょう。ただし現場で鉢合わせたときは容赦はしません」
「元帥!」
「ブリジット。お前も落ち着け。現場レベルではこの程度の休戦協定などどこにでもある話だ。要は中央の耳に入らなければいいんだ。お前も解っているな?」
冷静になれ、と諭されてはブリジットとしても応じるしかない。
自分一人が騒いだとて実戦となれば動くのはこの二人で、その間で妥協が成立したなら自分の出る幕はないのだ。
納得はしがたいながらも、腰を下ろす。
隣にいるのがノアと知りながらそれでも逃げ出さず腰を据えたブリジットに、クラウドはやや感心したような表情を向けた。矜恃を保つ手段としてはせいぜいそれくらいだった。
「それで、居場所はもう知れているのか」
「応える義理がありますか。エクソシスト」
「情報は多い方がいいからな。こちらが把握しているのはあのフーテンがミランダを連れていったのがこの航路の切符売り場だったという程度だ。実際船に乗ったのかどうかもわからん」
「間違いないでしょうよ。あの男が一番に行きそうな場所はもう当たりました。どこにもいないとしたら行ったことのない場所しかない。あの男は元から流れ者ですから。仕事を求めてあちこち移動するのに慣れています。カリブ近辺は今ちょっとしたコーヒー景気に沸いています。働き口は多いはずです」
平然と話を続ける二人がしゃくで、ブリジットはやや横やりを入れに走った。
というかこのノアがくるまでずっと考えていた不満をぶつけるのにもちょうどよかったのだ。
「全く、どうしてあんな男に。仮にもエクソシストともあろう者が。というかまともな女ならあんな男に連いていくなんて考えられません。本国では失業100回と聞きましたがそれならもっと楽させてくれそうな男を選ぶくらいの知恵はないんでしょうか」
そういって投げ出した書類に貼られているのはその「あんな男」ティキ・ミックと裏切り者のエクソシスト、ミランダ・ロットーの逢い引き現場とおぼしき写真である。
実は教団ではミランダ・ロットーが怪しげな男と付き合いがあるらしきことに以前から気づいていたのである。気づいていながら見逃していたのだから呆れるにも程があった。
『まあね、その…彼女、異性関係についてはいろいろかわいそうな身の上だしねえ……』と言葉を濁したコムイ・リーにはいろんな意味で怒りを覚えるものの、それならそれでもっとましな男とつきあうように忠告してやれとブリジットは思う。
教団だってあれだけの男所帯なのだから一人くらいミランダに好意を持った男はいたはずだ。そんなよりどりみどりな環境の中で選んだのがよりによってそれ!? 理解不能としか言いようがない。
「まあ見るからにダメそうな感じじゃありませんか。身なりは不潔だし頭も悪そうだし性格はいい加減さがにじみ出ていて、甲斐性も誠実さも感じられません。 こんなのに惚れる女がいるなんて! 同じ女として理解に苦しみます」
「その点はワタシも反論しがたいですね…。ノアでいるときはもうちょっとまともな恰好してますし、実際顔だけはいいから舞踏会では重宝されてましたが、まさか白の時のアレといっしょになろうという女がいるとは信じ難い。よほど男慣れしていなかったのか…」
「好き勝手言ってるなお前たち」
すっかりくつろぎモードに入って何も知らぬファインダーたちにワインを給仕させていたクラウドは、できる女二人の至極もっともな口舌に、苦笑気味で応えた。
「まあな。私も話を聞いたときは最初理解しがたかったが……深く考えてみればわからんでもない」
「「どこがですか?」」
思わずはもった二人にかまわずクラウドは続けた。
「お前たち、まず男に本気で惚れた事がないだろう?」
そういって向けられた言葉にブリジットもルルも露ほどの払いもしなかった。
「「ええそれがなにか?」
二人して異口同音に応える声には「そんなくだらんことがどうした」という自負がある。
それについてはかまわずクラウドは話を続けた。
「私もない。だから偉そうなことは言えないんだがな。まあお前たちより俗世でいろいろあった分ちょっと分かることがある。つまりだな。女は…真実のところ、自分より強い男には惚れたりしないものなんだ」
「…………はぁ?」
そこのところたいていの女は誤解しがちなんだがな、と前置きした上でクラウドが語った自説は以下の如しである。
「私の周りの女たちがな、かつての友人やらなにやら……捕まえる男というのはたいてい弱くてダメな男ばかりなんだ。何がいいのか私には分からんが、そういう女たちの言い分はたいていこうだ。『あの人のそばにいてあげたい』 『あの人には私がついていなくちゃダメなんだ』 『あの人は強がっているけど私の前では違うんだ』 とな」
言葉は違えど言っていることはだいたい同じ。「あの人を見捨てておけない」の一言だ。
別に自分一人がかまわなくてもどうということはないはずだというのに、まるで世界でたった一人その男を救えるのは自分だけだと言わんばかり。
そこには惚れたから尽くすとか、愛したからいっしょにいたいとかそんな甘っちょろい崇拝意識は欠片もない。
相手が本当に強い男なら、そうたとえばクロス・マリアンのような男ならこんなことにはならないだろう。他人の手が必要な風に思わせるような隙は作らないはずだ。だがどんなに強い男でも時折、ほんの一瞬、赤子のような無力さを感じさせてしまう瞬間がある。その落差が激しければ激しいほど、その一瞬は女の胸を打たずにはいられない。これはもう女の中に備わった本能のようなものだ。抱き寄せてその胸に囲い込んでしまいたいと。
「要するに女の愛情はだな……基本上から目線なんだ」
その結論はどうかと思うが、ブリジットもルルも確かに感じ得るところはあった。
「あのミランダ・ロットーがですか? あの自分を卑下しまくりの、見るからに他人依存の激しそうなあの女性が?」
「ティキは確かにダメダメな男ですが…別に弱いとは思いませんが」
仮にもノアなのだから、と言外に反論するルルにクラウドは首をかしげた。
「まあな。確かにミランダはどう見てもお前たちのように強い女じゃない。いや頑固で思い込みの激しいところはある種の強さなのかもしれないが…女の出来という点でな、とうてい及第点は取れないのは確かなんだが……」
ここで一息入れてグラスの中身を空にすると、クラウドは肘を突いておかしそうに笑った。
「だからこそ引っかかるのさ。あのミランダ・ロットーが惚れずにいられなかった、ティキ・ミックという男の弱さとは何なのか、と」
『拝啓 突然の出奔をお許しください。こんなことになってしまってどなた様にも顔向けできないのは分かっております。多くの方々に失望とご迷惑をおかけすることになったことについてはこの身を業火に焼かれたとしても償いきれぬ事と承知しております。ここに至るまで随分悩み、思い切りもいたしました。けれどやはり私には彼を見捨てることなどできそうにありません。お詫びの印にもなりませんが、彼もノアを止めると言ってくれました。それを信じてついていこうと思います。遠くより皆様のご武運をお祈りしております。 ミランダ・ロットー』
ミランダの残した最後の手紙には、自身のことは何も触れていなかった。ただ相手を見捨てられないとだけ。
それを考えれば確かに彼女の出奔は相手に引きずられてのことではない。
「見捨てられない。」
ノアを信じてついていくなどなんと愚かなと思っていたが、そう聞かされるとこの言葉の裏にある、ある種の諦念をブリジットはくみ取らざるを得なかった。
それは彼女には到底わかり得ぬ感情ではあったけれど。
いつか自分もそんな風に誰かに足を取られて抱き込まれてしまう日がくるのだろうか。
どちらともなく物思いに沈んだ空気の中、「島が見えます」とのファインダーの声に我に返る。
「世界で最も美しい場所」とコロンブスに言わしめ、海の宝石と呼ばれた仏領マルティニーク島が茫洋たる波間の向こうに浮かんでみえる。
「そういえばナポレオンの妻もこの島の出身だったそうですよ」
と誰にともなくノアの女が呟いた。
結局この島で二人を捕らえることはできず、その後の消息はノアと教団の二大勢力を持ってしても掴むことの出来ぬままとなった。
戦争激化の中、いつまでも二人のことばかりにかまけていられなかったのもまた事実であり、ブリジットもそれきりその事は忘れてしまった。
やがて戦争がかろうじて教団の勝利に終わったものの、その教団自体も解体される運びとなって、ブリジットは中央庁にそれなりのポストを用意された。
女性にしては異例の出世と周囲は褒めそやし、順当な出世街道を歩むものと思われたが、彼女はその地位を蹴って突然辞表を提出。どこかよいところへお嫁にと取りすがる富豪の両親の期待も裏切り、単身アメリカに渡ってしまった。
「まさかほんとに来てくれるとは思わなかった」
教団解体後、アメリカで事業を興したコムイ・リーは、かつてのごとく対面の机で事務仕事をこなすブリジット・フェイを見てつくづくと呟く。
「なんですか。『君がいてくれないとダメな気がする』とか言っていたのはその口ではないんですか」
「や、確かにそうなんだけどさ。てっきり断られると思ってたから」
だって前よりサラリーとか安いし。と情けなさそうに続ける男にきりりと眉を上げ
「だったらがんばって大きくしてください。会社」
と檄を飛ばす。うんうん、と怖がる素振りながらもうれしそうにうなずく男の顔を見つめ、ブリジットは自分がどうしてこんな男を好きになったのかと思う。
不幸にしてその答えはとうの昔に教えられてはいたのだけれども。