「馬連多淫泥? それはなんなのだ? 妲己よ」
字面からいけばなんとなく合っていそうでいなさそうな当て字で、紂王が聞き返してきた。
2月とはいえ、昼下がりの、よく晴れた日の朝歌である。
「遥か西方の国の習慣ですわん、紂王サマ。なんでもあちらの国では年に一度、女の方から好いた殿方に『猪弧 霊戸』なるものを送って告白するのだそうですわん」
「ふぅむ。『猪弧霊戸』とな。それは何かの呪術であろうか」
字面からいけば先ほどより更に近付いているようないないような。しかし誰も『猪弧 霊戸』なるものを正確に知らないのでつっこみようがない。ボケ役に対してツッコミ役が少ないのはこのマンガの特徴でもあることだし。
「いいえ。紂王さま。どうも甘い干菓子の類らしゅうございます。案外中に媚薬かなにかしこむのやもしれませぬが」
このメンバーの中で最も博識な王貴人が、義姉に代わって答えた。それでもやはり何かの勘違いがあることはいなめない。
「それで、作り方を聞いて妾も一つ作ってみましたのん。紂王サマに召し上がっていただきたくて♡」
嘘である。たとえ作り方がわかってもこの国で材料をそろえることは不可能だ。従ってこれはただの甘い干菓子。いや、ただのというには多分に語弊があるのだが。
「おお。妲己が作ってくれたのか。うむうまい」
単純に喜んでたいらげる紂王を妲己は笑顔を浮かべたままで凝視する。もちろんこれは例の紂王サマラスボス改造計画のために必要な薬がてんこもりで入っているのである。
「うまいぞ。妲己よ」
「あはん。紂王サマ。さあたっぷりとお召し上がりになってねん」
今日も今日とて馬鹿殿とおしどり夫婦を演じる妲己だった。
雨の日も風の日も寒い日も暑い日も脇目もふらず政務に励む聞仲閣下の目にも、今日の朝歌の様相は異常に見えた。
随分と女官たちが騒がしいのだ。しかも朝からなんだか妙に自分の周りで何かしらが起こっているような気がしてならない。
何が起こっているのかと言われるとはっきりしないのだが、誰かに監視されているようでもあり、何かしら取り残されているようでもあり、、、、要するに落ち着かなかった。
ふと張奎がにこにこ笑いながら入ってきた。手には四角い箱が握られている。丁寧にラッピングされたそれはどうやら誰かからのプレゼントらしい。
「張奎。今朝から何かしら女官たちが騒がしいようだが何かあったのか」
「あ、聞仲さま。どうやら今日は『馬連多淫泥』とかいう記念日なのだそうですよ」
「記念日? いったい何を記念するというのだ? 私は何も聞いておらんぞ」
「ええ、僕も妻からたった今聞いて……あ、妻は後宮の女官たちから聞いたそうです。なにやら西方の国のしきたりだとかで……想う男に女から告白していい唯一の日なのだそうです。それで告白する際には菓子を贈るのが決め事だそうで」
「なるほど。で、お前がその手に持っているのは……」
「はい。妻から貰ったんです」
臆面もなくにへらと笑う張奎に、聞仲はわけもなく殺意を覚えた。まったくこのクソ忙しい時に何が馬連多淫泥だ。そんなものは家に帰ってから好きなだけいちゃつけばよかろうが。結婚して日が浅いとはいえ職場にまで新婚生活を持ち込みおって。家に帰ればあったかい食事と寝床が待っているだろうに菓子なんぞ貰ってどうするんだ。だいたい後宮の女どもときたら揃いも揃って今のこの国の状況が分かっとんのか全く主に交われば赤くなるとは言うが主が主なら仕えるものもどんどん堕落するなどうせあの女狐が言い出したことだろうが諌めるどころか尻馬にのって騒ぐとは本来後宮に仕えるものは女とはいえれっきとした文官の一員なのだからもっと職務にたいする自覚と責任を持って………。
この間彼の手は決済書類を記す筆を一時も休ませることなく、端正な顔には一遍の苛立ちも見られない。
心の中では如何に愚痴ろうとも全く表に出さないのは立派と言えば立派であったが、それが最大のストレスであることもまた事実であった。年齢なぞもう数えなくなって久しいが如何に仙人とはいえもしかしたら探せば十円ハゲのひとつくらいあるかもしれない。
「聞仲ちゃぁーーーん♡」
最大のストレスの原因がいきなり背後から抱きついてきたので、聞仲はあやうく重要書類で溢れかえった自らの執務室で禁鞭を使ってしまうところであった。
ばらばらと竹簡がその手から落ちる。
「おのれ何をしにきた女狐!!」
「あらん、つれないのねん」
あいもかわらず複雑怪奇なセンスの服を着込んで事実上この国の皇后である女は、出入り口代わりにしてる窓枠に腰掛け優雅に笑ってみせた。
「せっかく今日は聞仲ちゃんのためにお休みを作ってあげたのにん♡」
「お休みだと?」
「そうよん。今日は女の子が男の子に告白する大事な日なのだから、働いちゃダメなのよん」
「くだらぬことを言うな! 色恋を仕事に持ち込むなど言語同断だ!!」
「あいかわらずおカタイのねん」
聞仲が怒り狂うごとに妲己は機嫌よく笑ってみせる。相手の神経を逆撫でしていることは百も承知なのだ。
「そんなことじゃ『猪弧霊戸』は貰えないわよん」
問答無用で今度こそ禁鞭が飛んだ。
「おやおやいけないな聞仲クン」
もう少しで部屋を半壊させるところだった彼の一撃を寸でで止めたのは目下のところの彼のストレス要因ナンバー2だ。
「乙女の大事な日に不粋な真似はよしたまえ。妲己とてキミのためを思って休みを作ってあげたのだよ」
西洋かぶれのマントを纏い、一部のスキもなくフリルとラメの衣装で身を被った趙公明はこの冬の日にどこで摘んでくるやら薔薇の花を片手にしらじらしい台詞を吐いた。
見れば彼のそばには大きな白い袋。そしてその中には張奎が妻に貰ったよりも遥かに手の込んだラッピングの箱が詰め込まれている。前髪のカールがうまく行かないと言って午前中部屋から出てこなかったこの男がなぜわざわざ今さら彼の執務室までやってきたのかなんとなく彼は想像がついた。そして誰が妲己にこんな下らぬことを吹き込んだのかも。
(見せびらかしにきたなこの無駄飯食らいが………!)
それにしてもこんな男に想いを寄せる女がいるというのは驚きだった。まったく世の中は不条理に満ちている。
「まああ、聞大師はまだ一つも貰っていないのん?」
背後で妲己がわざとらしく驚いた「ような」声をあげる。
実のところ彼の元に菓子が行かないのは当然と言えば当然ながら彼女の妨害工作の賜物である。朝から彼の側に近付こうとする女には速やかに朝歌から2000キロ近く離れた場所まで移動願っている。なんやかんやで女官の1/3はすっとばしたような気がする。
「いけないわねん。それではこれは妾からよん。日頃お世話になっている聞仲ちゃんのために、今朝からずーーっとかかって妾が作ったのよん」
妲己がゆったりした袖口から取り出すより先に、聞仲の禁鞭が炸裂する。
「いらん!! お前の作ったものなど口にできるか!!」
「やれやれ。意地をはるのはよくないな、聞仲クン」
からかうように後ろの無駄飯食らいが肩を竦めた。
「本気でいやがっとるのだ!! 見てわからんのか馬鹿!!」
「馬鹿!?」
趙公明が端麗な(といってもいいかもしれないくらいには美形かもしれない男である)顔を歪めて青ざめた。
「馬鹿というと、馬みたいな鹿のことかい!? 失礼な!!! いかに聞仲クンといえど、この僕をあんな茶色の顔長動物と一緒にするのは許されないよ!! この僕を例えるのなら………そう、純白の翼で身を覆い、死にゆくときには絶えなる美声で鳴くというあの優雅な白鳥こそがふさわしい!! これからは僕を白鳥の貴公子と呼んでくれたまえ!!」
「こっの、あほうどもがーーーー!!!!!」
今度こそ、執務室はあとかたなく全壊した。
「聞仲様、大丈夫ですか」
いつの間にかちゃっかりと避難していた張奎がおろおろと声をかけてきた。
聞仲はといえば御自らばらばらになった竹簡を拾い集めている。几帳面にひとつひとつ拾い上げては確認するその姿はなんだか貧乏性じみていなくもない。
「お手伝いを、、、」
手を出そうとする張奎を手で制し、聞仲は自らの禁鞭が薙ぎ倒した机をどっこいしょと元の位置に据え付けた。
「かまわん。私がやったことだ。自分で片付ける」
「はあ、、、でも、、、」
「お前は自分の仕事をしていろ」
なんだか意固地になっていなくもないと自分で自覚していたが、その原因が何なのかということについては天地が裂けても認めたくはなかった。
書類をまとめ、竹簡を繕い、壊れた欄干や柱は自分でとんかんと金槌をふるい、、、結局かたづけは夕方までかかった。
「あら? お義姉様? お義姉様ーーー!!」
夜にはきまって超美人専用エステにいそしむ妲己のために部屋を訪れた王貴人は、姉の姿が見当たらないことに気付いて宮廷中を探しまわった。
「どこに行かれたのかしら?」
夜更かしは美容の大敵だといつも豪語しているのに。
もう一度部屋に戻ってみるとはたして妲己は何ごともなかったようにカウチに寝転がっている。
「あら、お義姉様? 今までどちらにいらしたのですか?」
「秘密よん♡」
妲己は優雅に笑ってみせた。
「やっと終わったか、、、、」
片付けが終わった後、本来の政務に戻り残った書類を全て片付けること◯時間、、、。
考えてみれば彼の上に上司はいないも同然なのだから1日くらいの遅れを咎めだてする人間もいないのに、やりかけたことは最後までやらなければ気がすまないあたりが律儀というか貧乏性というか。黄飛虎あたりがみたらため息をついて苦笑しそうな後ろ姿には「苦労症」の3文字がくっきりと刻まれている。
「ふ、、、私も弱気になったものだ、、、。あの男がいれば、、、いれば、、、、、、、」
いたら今頃、か氏から貰った菓子(だんじて洒落ではない)に舌鼓をうって脂下がっていただろう。
かつて「うちのかーちゃんは宇宙一美人で優しくて料理がうまくて気立てがよくて、、、」と酔っぱらう度に相手かまわず自慢しまくる彼は、朝歌一の愛妻家の名をほしいままにしていたのだから。
思い出すとちょっとまたわけのわからぬ殺意とそれに倍する疲労がわいてくる。
長い廊下を渡って自室にひきとる彼の背には「孤独」の2文字も加わって、見る者がいたら同情せざるを得ない、独身男の悲哀をただよわせていた。
「なんだこれは」
独身生活300年ちょっとの彼の部屋にかつてない華やぎが溢れている。
常ならば、政務を終えて帰った部屋に待っているのは暗い、冷たい、人気ないと三拍子揃った部屋であるはずだった。
それが今ある光景はといえば、まず、新婚さんでもちょっと恥ずかしいほんのりピンクの灯の雪洞(ぼんぼり)。真っ白いレースのテーブルクロスに、彼なら絶対に買いそうにない繊細で非実用的意匠を施された銀製の燭台。そしてその上にたった今できたばかりと見まがうあたたかな湯気につつまれた若奥様風家庭料理。
天井に張っていた蜘蛛の巣も一掃され、柱といわず家具といわずピカピカに磨きあげられている。
通じる寝室も寝台には真新しい天蓋幕がはられ、シーツもピシッとばかりに糊のついた真っ白の新品と取り替えられていた。
「面妖な、、、、、誰の仕業だ」
こんな暖かな風景を目の前にしてもつい疑いの目を向けてしまうのは300年ちょっとの独身生活のなせる業だろうか。
料理の並んだテーブルの上にさらに気恥ずかしくも盛られた生花に聞仲は眉をしかめる。確か昼間これと同じ花を趙公明が持っていたような、、、、。
「おのれ、あの男の悪ふざけか!」
「心外だな。この僕が何をしたと?」
すぐ背後で声がして、聞仲は飛び退った。
「公明! 貴様の仕業だろう! この、、、この、、、」
悪ふざけ、というにはいささかおしつけがましい好意に満ちている部屋の有り様に聞仲は言葉につまる。
「まさか。僕ならキミをからかうのにこんな手の込んだ手法はつかわないよ。もっと効果的にこれみよがしにチョコレートを持参するだけで十分だ」
「ならこんな遅くに人の部屋まで何しにきた!!」
「失礼だな。僕はずーーーっと前からここにいたんだよ」
だからなんでずーーーーっとここにいたんだお前は。良識がありすぎてツッコミもできない聞大師は黙って趙公明を睨み付ける。
ふと気付けばこの部屋のみょーにピンク色の雰囲気はこの男のみょーーに外した雰囲気とマッチしていなくもない。はっきり言って浮いているのは独身生活300年ちょっと(しつこい)の彼の方だった。
「いや実はね」
いささか本気で怒りかけている聞仲の気配を察して、趙公明はようやくまともに話しはじめた。
「ぼくが散歩から帰ってくるとキミの部屋に怪しげな女官がひとりこそこそと入っていくじゃないか。これはひとつちゃんと見届けておかなければと思ってずっと様子を伺っていたわけさ」
見届けはしても止めようとはしないあたりが金ごう島一の騒動屋たるゆえんである。
「それで?」
「それだけ」
聞仲の懐から禁鞭が取り出される。
「ノンノン。短気はいけないよ。聞仲クン」
大仰に首をふりつつもその額にちょっと汗が滴る。
「で、その女官はどうした」
「さあ。終わったらさっさと行ってしまったよ」
嘘である。
実際後ろ姿からその正体の見当はついていた。
しかしこの男の嘘を見破るのは至難の業だ。聞仲の一睨みごときではびくともしないツラの皮である。
「おおかた、キミに想いを寄せる女官の一人ではないかな? スミにおけないね、聞仲クン」
からかうように言って趙公明は軽くウィンクした。
「それではボクはこれで失礼するよ。夜更かしは美容の大敵なのでね。はっはっはっはっ」
しらじらしく表情を変えずに笑いながら趙公明は去っていった。どこをどうやるのかわからないが身体の向きはこちらに向けたまま。
後に残された聞仲は部屋の中を見渡してため息をついた。
「、、、、、寝るか」
マントをとって部屋の角にかけるとふとテーブルの上の食事が目に入った。まだ暖かな湯気をたてている。
無視して一度寝室に入りかけ、一歩入ったところで、また引き返した。
「せっかくだからな。冷めんうちに食べるとしよう」
誰も聞いていないのに、つい自分の行動に言い訳をしてしまうのは300年とちょっとの独身生活(ほんとにしつこい)の間に身についた習慣だった。
繊細な象牙細工の蓮華を手にとってまずスープを一口、口に運ぶ。
「ふむ。悪くないな」
この男にしては最大限の褒め言葉だった。以前黄飛虎のところに招かれた時など彼の愛妻の料理に「ま、食えなくはないな」などとほざいて飛虎を憤慨させたこともある男だ。独身生活300年ちょっと(ええかげんにせーよ)の彼の舌は一流の外食料理に慣れてしまっている。
「うむ。悪くない」
これで一緒に食してくれる者がいればもっといいのにとは死んでも口にできない彼である。それでもひさしぶりに食べる食事らしい食事は彼のささくれだった心を十分に慰めてくれた。
最後のよく冷やされた西洋酒を飲みおえると、彼は先よりはずっと心落ち着いたため息をついて、寝室に向かった。
「うふふふふ」
「お義姉さま。何を満足そうに笑っておいでですの?」
いつものようにマッサージをほどこしながら王貴人が尋ねる。
「秘密♡」
妲己の幸福そうな笑いの意味を結局誰も知ることはなかった。