どこで泣いてるの かすかな声がする 人も家並みも 寝静まる夜 どこで泣いてるの きこえてくる かすかに とても悲しいと わたしを呼んだ
1.永遠を銀の爪で刻み付けた
夜半、ふいに目が覚めた。 誰かが泣いている--。 その場所に、その人はいなかった。 確かに、そこにいた気配だけは残っているのに。 言葉にできないわだかまる何かが、彼女を突き動かす。 どこにいるの---? 小さな声で呼びかけてみたが、返事はなかった。 吐く息は白く、けれど走ってきたためか、寒さは感じなかった。 しばらく、待った。 もう一度大きく息を吐いた。やはり白い。それでもまだ寒さは感じなかった。少なくとも夜のせいではない。 震えているのは寒さのせいではなく---。 「フィリア、どうしたのです、こんな夜中に」 ふいに背後から声がかかり、幼い少女は振り返った。 白いマントに身を包んだ妙齢の女性が立っていた。 「スフィア様」 彼女の育ての親である。フィリアが仕える神殿の巫女の中でもっとも位の高い聖位 一位の巫女でもある。そしてやがてはその座はフィリアに継がれるはず……であった。大神官の娘として、掌中の玉 の如く育てられた娘が夜半に神殿から遠く離れた砂漠の真ん中にいたとあっては心配するのも道理だろう。 「ごめんなさい……」 だから娘は素直に謝った。聡い娘であった。 「でも、誰かが呼んでいたので……」 「誰かが……?」 「そうなんです。誰かがここにいたんです。ここで泣いてたの。だから、わたし……」 言いさして、フィリアはスフィアが困ったような顔をしているのに気がついた。 考えてみれば、その「誰か」が見あたらないのでは言い訳にもならない。 「フィリア、あなたの感応力の鋭いことは認めます。けれど、こんな夜半に黙って神殿を抜け出してはいけませんよ」 「ほんとうなんです、スフィア様……」 叱られてしゅんとなりながらも少女は、なんとか信じてもらおうと繰り返す。 だが、普段は優しい養い親は困ったように眉を寄せただけだった。僕を呼ぶきみの声が 確かに 聞こえている ただひとり 僕はひとり 無人の荒野にたつ実のところ、スフィアはフィリアの言い分を信じていないわけではなかった。彼女自身もその声に気がついていたからである。そして幼いフィリアが「誰か」としか感応できなかったその「誰か」の正体も正確に掴んでいた。 「とにかくフィリア、帰りましょう。皆が心配します」 言って娘の手をとると、意外にも強い力でフィリアは逆らった。 「いやっ!! もう少し、ここにいます!」 「……フィリア」 困り果てた養い親の声にもフィリアは耳を貸さなかった。 賢く、聞き分けの善い素直な娘が、実はその父にも負けぬほどの強情っぱりであるとを幼い頃から彼女を育ててきたスフィアはよく知っていた。一度言い出したら決して曲げぬ ことも。 「だって……だって、泣いてたんです! とても悲しいって、とても寂しいって。だから、わたし、ここで待ってます。それで、ずっとそばにいてあげるの!」 思いもかけぬ言葉にスフィアは激しく動揺した。 フィリアの感応力の強さは彼女が充分知っている。幼い身で両親の元を離れ、彼女に預けられているのも巫女としての能力の高さを買われた故だ。それがこんな時に、非常にまずい方向に働こうとは思いも寄らなかった。 「フィリアはここにいるの! いるんだもんっ!!」 ついには年相応の言葉遣いに戻ってしまったフィリアは駄々っ子のように座り込んでしまった。 「……わかりました、フィリア。では気の済むまでここにいなさい。けれどあなたの望む人は現れないかもしれませんよ」 「かまわないもん。ずっと待つんだもん」 すっかりつむじを曲げている。こうなると手がつけられない。 ため息をついてスフィアはフィリアの元を離れた。 といってもしばらく離れたところで様子を見守ってはいる。 どうか、かの者が戻ってきませんように。 心中密かに彼女の信奉する火竜王ブラバザードに願いをかける。 そして彼女の願いは聞き届けられ、フィリアの待ち人はついに現れなかった。
2.意味もなく、時は過ぎ
自分は何のため、ここにいるのか我が神よ、ブラバザードよ。我が願いをお聞き届け下さい---。 静謐な空気に満たされた神殿内で、彼女は跪き、祈りを捧げる。 神事だの、祭だの、信者への儀礼だのですっかり形骸化してしまっている祈りとは違い、これだけは彼女が自主的に、日課として行っている祈りだった。何を祈り、何を願ってのことなのかは誰も知らない。彼女も黙して語らない。 神の存在を彼女を疑ったことはない。ならば祈りもやはり聞き届けられるものと信じていた。 目を閉じ、手を合わせ、つぶやきは外に漏れないように繰り返される。 「フィリア様」 ふいに背後から声がかかった。 振り返らない彼女に、もう一度、巫女装束の世慣れぬ風の娘が声をかける。 「フィリア様……大神官様がお呼びです……」 声には畏敬と憧憬とが混じり合っていた。まだ神殿に上がって間もない娘にとって、大神官の娘で聖位 一位の巫女、というのは一種の理想である。 少女の問いかけに、やはり返事はなかった。ためらいながら、もう一度呼びかける。 「フィリア様……あの」 「もうしばらく待って下さい。大切な祈りの最中なのです」 顔を上げず、振り向きもせず、従って、祈りを中断することなくフィリアは答えた。 「あの、でも、緊急の……」 「大切な祈りなのです。中断はできません」 断固とした声で彼女は答え、少女は身をすくませた。 声には冷厳といってよい程の決意があった。 立ちつくす彼女をかまいもせず、フィリアは祈りを続ける。 しばらくして立ち上がった。 「お待たせしました。参りましょう」 白いマントを軽く翻して、扉を出ていく彼女の後ろ姿を少女は呆然と見守っていた。 やがて後ろ姿が奥の扉に消えた後も、しばらく動けずにいた。 普段優しく清楚な彼女があれほどまでに拘る「祈り」とはなんだろう……? そしてそのありさまを見守っていたもう一つの人影は、フィリアが先ほどまで祈りを捧げていた神殿の奥院の物陰で、ふっとため息をついた。 彼女だけはフィリアの祈りの理由を知っている。 というより感づいている。 フィリア自身は彼女にすら語ることはなかったが、フィリアが祈りを始めた時期の前後関係を知っている以上、原因は一つしか考えられない。 (フィリア……。貴方の中にはまだ、あの者のことがあるのですか……?) だとしたら、彼女はいずれつらい運命を強いられることになるだろう。 (ブラバザードよ……あの娘をお守りください……) 彼女にとっては実の娘同様に慈しんできた娘である。 その美しさも、素直さも、純粋さも、潔癖さも、そして巫女としての能力の高さも、申し分なく成長してくれた。 ただ一つ誤算があるとすれば、それは彼女がいつまでも幼い頃のことを忘れずにいることだった。ほんの一瞬、心を重ねただけの……その面影も、素性も知れぬ者の絶望の嘆きを。
「世界の危機……ですか」 なんの現実感も湧かぬままフィリアは父親である大神官の言葉を繰り返した。ブラバザードの神託が下ったのはつい今朝のこと。 フィリア自身が感知したわけではないので、どのような神託なのかはまだ知らなかった。ただその神託が下ると同時に七長老が集められ、緊急の賢者会議が開かれていたことは知っている。聖位一位の巫女とはいえ、黄金竜には厳格な男尊女卑的ヒエラルキーが存在しており、彼女がその会議に出席できることは稀だった。 「お前にはこれから、御神託により運命められた者を探し出してもらわねばならぬ 」 長い説明の後にようやくフィリアは自分がここに呼ばれた訳を知った。 それにしてもこれは……話が大きすぎる。 俄に現実味を帯びてきた神託のことを考えながら、フィリアは頭の片隅で、別のことに気を取られていた。 (しばらく祈りを捧げられなくなっちゃうわ……) 世界の危機と、会ったこともない者の嘆きの声と。 両天秤にかけられるような問題ではないことは分かっているが、一生をかけているという点では彼女には同じことだった。 「まず、ゼフィーリアに向かえ。かの地には赤の竜神の騎士(スィーフィード・ナイト)がいるという話だ」 「ということは、御神託に告げられた者は赤の竜神の騎士ではない可能性もあるのですか?」 「わからぬ。だが、『神と魔の間の力を持ちたる者』と御神託にはある。おそらく人間のことであろうと思うのだが、赤の竜神の騎士は、どちらかといえば、我らの側に近い。会って見極めよ」 そんないい加減な、と思ったが、口には出さなかった。 だが、まぁ仕方ない。 (ゼフィーリアか……) 遠い東の地である。 (もしかしたら) 一礼し、扉を閉めた時、フィリアの顔には不謹慎にも微笑みが浮かんでいた。 (どこかで会えるかもしれない) あの時の声の人に。 あの時感じた声は、あの後も、フィリアが幼い頃は時折近くに感じることがあったのだが、行ってみるといつも一足違いで、いつのまにか声すら聞こえなくなってしまった。どこか遠くに行ってしまったのだとすれば、旅の途中でもう一度聞こえることがあるかもれしれない。 (いつか必ず、会える……) 予知でも予感でもない。これは願望だ。何の保証もない。 だから祈る。 彼女は神の存在を疑わない。疑えば祈りの有効性もないものになってしまう。 だから祈る。 会いたい。 そばにいたい。 巫女としてではなく、ただの少女だった自分が初めて願った望みだった。 叶わないなら巫女などやめてもいい。 巫女である自分を誇りに思わないわけではないが、あの時の声に応えられないのなら巫女である自分などにはなんの価値もないとすら思っている。 「フィリア」 名を呼ばれて、振り返ると、スフィアがそこにいた。前にもこんなことがあったような気がする。 「スフィア様」 やはり以前と同じように返すと、優しい笑みが返ってきた。 あの時は--強情を言って困らせた。 「行くのですね」 既に事情は聞き知っていたらしい。 そういえば七長老の一人は彼女の夫であった。 結婚して、巫女を退いた後にフィリアがその位を継いだのだ。 「はい」 「気をつけるのですよ」 短い言葉に込められた想いを彼女はしっかりとうなずいて受け止める。 「それから……」 言いさして、途切れた言葉に、フィリアは不審気に形のよい眉を寄せた。 「……何か、ご心配事でも?」 「いえただ……」 「……?」 奇妙な沈黙があって、ようやくスフィアは口を開いた。 「フィリア。今回の旅は目的のことだけを考えていなさい」 明確な言葉を避けて、スフィアは忠告した。 フィリアは聡い娘だから、彼女の忠告の裏にある言外の意味をすぐに察していた。 「あの声を聞くな、ということですか?」 彼女の巫女としての能力の成長をいつも喜んでくれたスフィアが、このことに関してだけはよい顔をしなかったことを、フィリアは思い出していた。 「どうしてでしょう……?」 今までできなかった疑問を敢えてフィリアは口に出した。 「今は……世界の存亡についてだけ、考えていなければなりません。……余計なことにかまっている暇はない。そういうことです」 建前は非常にうまくできていて、反論を許さない厳格さがある。 幼い頃はこの口調でいつも言い負かされていた。スフィアにはそんなつもりはないのだろうが。 「余計なこと……ですか」
わたしの 視線の 瞬間の 残像 瞬間の 永遠 忘れない 忘れない あなたを「昔……ライゼル様のお話をして下さったこと、覚えていらっしゃいますか?」 遠い昔に大神官であった人の名前をフィリアは口にした。 脈絡のなさに、スフィアは顔をしかめる。 泣いていた人の子を助けようとして、命を落とした、盲目の大神官。 降魔戦争の際に、シャブラニグドゥによって両目の視力を奪われながらも、豊かな識見力と人柄をかわれて最高位 である大神官職を勤め上げた。それなのに泣いていた子供を助けるために、命を落とした。その話は今でも劇的な語り草になっている。 「あの時、スフィア様は命の尊さはみな同じだとおっしゃいました……」 スフィアとしてはただ単に、慈悲と生命の尊厳について教えただけのつもりだったのだろう。 「でも……私は考えていました。その時からずっと」 「何を……です?」 「ライゼル様のお気持ちを」 スフィアは黙って、先を促した。彼女にこの話をしたのは『あの時』のすぐ後であったように記憶している。そうだとすれば、約150年ほど前のことだ。 「あの方はどんなお気持ちで、人の子を助けたのでしょうか」 「ライゼル様は慈愛深い方でいらっしゃいました。きっと人の子を憐れと思し召したのでしょう」 「憐れみ……そうですね。私もそう思います。スフィア様は?」 「え?」 「同じ立場に立ったとき、スフィア様は人の子を助けるために命を落とすことはおできになりますか?」 「私は私にできることをなします」 答えになっているのかわからないようなことを言われて、フィリアは笑った。 「私は……ライゼル様のお気持ちがわかります。あの方はただ、人の子の泣き声を聞いていたくなかったのだと思います。それはあの方の心を苛立たせ、傷つけたのでしょう。助けてやる他に道がない。あの方にはその時他に選択の余地がなかったのです」 「フィリア、それは……」 「同じことです。私があの声を忘れないのは。忘れられないのではなく、覚えていたいわけでもなく、忘れないより他に方法はないのです」 「フィリア、世界の危機が迫っているのです。今はそれについて論じている場合ではありません」 フィリアは僅かながら失望を感じた。 所詮、ライゼルの死が讃えられるのはその暴挙ゆえなのだ。たかが人間の子一人のために命を賭けた--彼らには到底理解できぬ 、憐れみであるがゆえに。 「スフィア様。貴方にはお分かりにならないのでしょうが」 感じた失望を隠そうともせず、なおも言い募ろうとするスフィアをフィリアは遮った。 「たいした違いはありません」 スフィアが絶句したのを見たのは、はじめてだった。
3.そしてまた、この朝に
ふしぎな力が あなたとわたしを ひきよせて ひきはなしてそばにいたい……。 要するに、それだけのことなのだ。けれど。 思う度にきつく締め付けられるような思いがある。 理由など単純なことだ。彼女は、ただあの声を聞きたくなかったのだ。それだけのことなのだ。 魂を--引き裂くような、悲しみ。孤独。絶望。 血が--脈打つ度に、痛み、軋み。 悲鳴--悲鳴--絶望の、恐怖の、打ち捨てられた孤独の--悲鳴だ。 何ができるというわけでもないような気がした。 無力なのはわかっている。わかっているから巫女なんぞやっている。 かの人がどんなに泣き叫んでも悲鳴を上げてもその声はブラバザードに届かないのだ。 ならば自分が代わりに泣きわめいてもいいだろう。 私の声を聞け。私の願いを聞け。あの人の悲鳴を……聞け。 (だって、神様なんでしょう) そんな風に彼女は祈る。それは祈りというより糾弾に近い。
4.すべてははじまる
世界が遠のき 薄れて消えたそのあとに あなただけがそこにいた かすかな記憶「では、行って参ります」 もう一度祈りを捧げた後、フィリアは旅支度を整え、神殿を後にした。 スフィアが最後に何か言いたそうにしていたが、フィリアは黙って頭を下げただけだった。 スフィアにあの声が聞こえなかったはずがない。 彼女はもう、そのことにとっくの昔に気づいていた。 まだ幼い自分にあれほどはっきりと聞こえていた声に、仮にも当時、巫女の筆頭であったスフィアに聞こえないはずがないのだ。 聞こえていて、敢えて無視していた。 そのことに気づいた時からフィリアはスフィアに対して純粋な敬意を払えなくなった。 何かしら事情はあったのだろう。 自分の知らない、何かが。 皆、何かを隠している……。 箱入り娘として育てられていたって、狭い神殿の中ではすぐに気づく。目だって、耳だって、ちゃんと動かしていれば気づくのだ。だから祈りの理由も誰にも言わなかった。言えばなんのかんのと理由をつけてやめさせられることが分かっていたから。 「結局、知りたければ自分でなんとかするしかないのね」 だから、やっぱり神殿を出て正解だった。 「世界の危機」。 ブラバザードの御神託について考えると、ほんの少し後ろめたくはあった。 二の次にしていい問題ではないことは勿論だ。赤の竜神の騎士は承知してくれるだろうか。まぁ、事が事だから断られることはないだろうが。 人類代表の第一候補が、ウェイトレスのバイトと世界の危機とを天秤に掛けられる人間であることを、彼女はまだ知らない。 とりあえずはゼフィーリアへ。 すべてはこれから始まる。
参考資料 ・小学館コミックス「夢見る惑星」 佐藤史生 ・CDアルバム「漂流楽団」 谷山浩子 ・CDアルバム「銀の記憶」 谷山浩子 ・CDアルバム「歪んだ王国」 谷山浩子 ・CDアルバム「天空歌集」 谷山浩子