
岩影の向こうから、荒い息遣いが聞こえた--。
耳をすますまでもなく、湿った空気の中で獣のうなり声のようなそれは岩肌に反響してフィリアの脚を止めさせた。
そっと様子をうかがった先に、目的の人物がいた。
彼だ。
以前会ったときより翼がひとまわり大きくなっているような気がした。
いきなり吹き飛ばされたりはしないだろうが、フィリアはできるだけそっと気配を消して近づいた。もっともそんなことで気づかない相手ではなかったが。
1mほど近づいたところで、険のある視線がゆっくりと彼女を射た。
他人にこれほど明確な憎悪を投げられるのは初めてで、フィリアは声を失う。そもそも--かけるべき言葉すら持っていなかった。
(大丈夫ですか?--なんていうのもおかしいし。いきなり真相を教えて下さい、なんていって教えてくれるとも思えないし)。
それでも聞かなければならないことだった。
そのために仲間の食事に睡眠薬を盛り、リナにすら黙って、抜け出してきたのだ。
後で気づかれたらさぞかし怒られるだろうが。
「あの……」
「何しにきた」
投げられた一言は、素っ気なくはあったが、視線ほどきつくはなかった。
むしろ彼は疲れているようだった。あまりにも疲れすぎていてフィリアどころではないというほど。
時折苦痛に顔を歪ませる。息遣いは先より静かになっていたが、それは意識して押さえているだけのようで、その分背中で息をしている。
ふいに、その身体が激しく痙攣した。
上げかかる声を歯を食いしばって押し殺し、左腕を押さえて身体を折る。
思わずさしのべたフィリアの手は、次の瞬間には激しく振り払われていた。
それでも、起きあがることはできない様子の彼の背中に、フィリアはもう一度、手を当て、回復の呪文を唱えようとした。
「やめろ……お前達の情けは受けん。それに……どのみちそんなものは利かん…」
言い終えた後、またしても苦痛に顔を歪ませる。
唱えかけた回復の呪文を繰り返しても、疲労や苦痛をとりのぞくための癒しの呪文も彼のいったとおり、何の効果もなかった。
それでも背中に当てた手を離すことはできず、フィリアはそっとその背を撫でてやった。
この旅で、自分の無力さを感じたことは幾度もあった。
リナのバイタリティ、ガウリイのおおらかさ、ゼルガディスの執念、アメリアの正義感。自分にはない強さを何度もうらやんだ。
けれど、今ほど。
今ほどではなかった。こんなふうに泣きたくなるほどでは。
「わたし……本当のことを、知りたいんです」
傷ついた翼を見つめながら、フィリアはそっと囁くように告げた。
それが精一杯の勇気だった。
真実から目を背けないこと。それだけが自分に残った力だった。
「本当に、私たちが……あなたの一族を……エンシェント・ドラゴンを滅ぼしたのですか……?」
息をつめて待ったが、答えはなかった。
聞こえていなかったのかもしれない。
もう一度尋ねようとした時、低い声で答えが返ってきた。
「聞いて…どうする…」
「わかりません……もしそうなら…私はあなたに償いをしなくてはならないと思います」
「命は償えない……あの時奪われた命に償いはできないんだ…」
呪詛のような言葉が彼女の耳を打った。背中をさする手が思わず止まった。
「本当……なのですね……?」
「…………」
しぱらくの沈黙の後、どちらかといえば淡々とした声が帰ってきた。
「俺達は、北の村で暮らしていた……ちょうど、この砦からまっすぐ北の方角に向かった場所に、かつて俺達の村があった……。俺達はお前達のいうとおり、他のドラゴン種族に比べて気性が荒い……。闘争本能も強い……。それでも降魔戦争以来、できるだけおとなしく暮らしていた。俺達は他のドラゴン種族に比べて数が少なかったし、加えて雌の繁殖能力も強くない……お前達の雌は何度でも子を産めるが、俺達の雌は一度きりしか子供を産めない……産卵の後死んでしまう例がほとんどだからだ……だからあの時、一族中を数えてもせいぜい二、三百頭に満たなかった。せめて……せめてあと百頭いれば……あの時滅んでいたのはお前達だったはずだ……」
そこで、いったん言葉を切ると、大きな息を吐いた。
別にフィリアの反応を確かめたわけではなく、ただ単に長い話はできないほど疲労と苦痛が激しいらしかった。
「あの時、お前達は数万頭はいた……一度に襲ってくるのではなく、長い時間をかけて俺達をできるだけばらばらに引き離して……最後は多勢に無勢というやつだ……おまけにどこから持ちだしたやら、人間どもが使う対竜戦用の砲弾まであった……用意周到なことだ……よっぽど俺達が怖かったと見える……ふん……」
ひきつるような笑いの後、すぐに苦痛に顔をしかめる。それでも先ほどよりだいぶ回復してきたようだった。
「何年も…何十年もかけて、お前達は執念深く俺達を追いつめていった。ひとり、またひとり、数百の仲間が百に減り、数十に減り……最後に俺が残った……」
視線を合わせぬまま一気に語り尽くして、彼は大きなため息をついた。
「これが……俺の知る限りの真相ってやつだ……満足したかい、お嬢さん……」
「それは……それはいつ……どのくらい前の……」
「二百か…三百年前くらいさ。俺がまだ成竜になったばかりの……ほんの30歳くらいだったときのことだ……」
竜族の成長は人間とは異なる。人間の成長は時に比例するが、竜族の場合、全体の寿命は1000年ほどだが、最初の20年から30年ほどは成長が早く、その間に成竜となる。その後はゆっくりと年をかけて老いていくのだ。フィリアは成竜となってからまだ100年ほどである。彼女が生まれる100年前の出来事……ではやはり父は知っていたのだ……知っていたのに、彼が悪だという。
(私には裁けない……私には……そんな資格はない)
激しい自己嫌悪の中で、フィリアはまず自分のすべきことを考えた。
「どうすれば……どうすればいいですか……」
震える問いに答えはなかった。
彼の言ったとおり、百年もかけて奪われていった命に償いはできないのだ。
「私は……それでもあなたに償いをしなくてはならないと思います。私にできることを……教えて下さい……」
「何度も言ったはずだ……償いなど……できはしない」
「ではせめて……あなたの側にいさせてください」
「やめろ!!」
たたきつけるかのように彼は拒絶の言葉を吐く。すぐに顔をしかめた。またしても身体を襲う激痛に。
「それでも、私には……他にできることがないんです……あなたの苦痛と、絶望とを取り除く方法があるのなら……私はなんでもします。貴方の救いになるものはこの世界にはもう、ないのかもしれない……でも、だからといって貴方にこの世界を滅ぼさせるわけには行かないんです。そんなことをしたら貴方は……貴方はもう二度と自分を許せなくなってしまう……」
「俺のためだってか……そういうのを偽善っていうのさ、お嬢さん……」
「偽善のどこが悪いんです」
はじめて、彼が彼女を見た。一瞬だけ。
すぐにそらされた視線を追うようにフィリアは言い募った。
「偽物だとか、本物だとか、どこで決まるんです。善も悪も人によってみんな違うんです。私は火竜王の巫女です。だから神の正義を信じなければならなくて、そしてそれによって為されたことには責任があるんです。神は間違うわけにはいかない……神様が間違ったのなら、私たちは死ななければならないのですから。巫女とはそのための生け贄です。ご存じですか……? 太古の昔から託宣し損ねた巫女は死ななければならないんです」
どこからか吹いてきた風が、彼とフィリアの髪を揺らして、虚空の闇に消えていった。無責任に吹いて、消えていった。
「貴方から見れば馬鹿馬鹿しいでしょう。私は巫女だから……神を信じなければならなくて、神の正義のために死ななければならないんです。私には私の善を、悪を決めることはできない。そんな自由はないんです。生きる理由さえ私が決めることは許されないんです。偽善というのはそういうことをいうんです。自分が信じた訳でもない正義のために生きて、それに殉じることを云うんですよ」
ひきつるような笑いがフィリアの顔に浮かんでいた。今までヴラバザードに対して疑心を抱いたことはない。今だって抱いてはいない。それは許されないことだからだ。巫女であるかぎりは。欺瞞だろうか? 多分そうだ。
「貴方を滅ぼした私たちの一族は……少なくとも神の正義を信じていました。その点についていえば……私たちの一族は正義のためにあなた達を滅ぼしたんです。おそらくそれが私たちにとっての正義でした」
「でも、私は……貴方がこれから望んで、しようとしていることが貴方の救いになるとは『信じられません』」
「…………」
「貴方は信じているのですか? これで何かがかわると……今の苦痛と絶望から解き放たれると、本当に信じているのですか?」
答えはない。
「信じてもいない未来のために、信じてもいない道を行くんですか。それこそ偽善じゃないですか! 貴方の信じたものは何だったんです。信じたいものは何なんです。滅んだ一族のための復讐なら、私たちを殺せばいいでしょう! ガーヴの復讐がしたいなら私たちを殺せばいいでしょう! それで何かがかわると思うのなら、やってみればいいじゃないですか! なぜ世界のせいにしてしまうの、なぜ全てを否定してしまうの、なぜ過去のためにしか生きられないの! 貴方は生きていて……未来に向かって生きているはずなのに……」
泣きながら彼の腕に癒しの魔法をかけ続けるフィリアを、彼はかける言葉もなく見つめていた。
(貴方は……何を信じたいんです!)
信じる……かつて彼が信じていたのは、穏やかに過ぎていく筈の北の地での同族との暮らしであった。否定された存在を、生きるために戦えと力と命とを与えてくれた恩人の存在だった。それらは失われて、もうない。今は?
「貴方は……過去に戻りたがっているだけです」
それを告げるのは身を切るように辛かった。こんなことをいう資格が自分にあるだろうか。それでも誰かが云わなければならないことだった。
腕にすがりつくようにしてうずくまった彼女を、彼は今度は払いのけようとしなかった。
「俺が信じるのは……ガーヴ様だけだ」
「私が信じるのは、未来だけです」
反射的に言ってしまってフィリアは少しだけ後悔した。それで問いを変えた。
「貴方は……自分を信じていますか?」
「…………」
答える声はない。
「お願いです……自分を見捨ててしまわないで……」
荒野に打ち捨てられた少年と無数の屍と。フィリアは見ていないが見える気がした。無力さに歯噛みして、同胞の死に涙して、存在を否定されて……。
言えることは言い尽くして、伝えたい言葉をさらに探しても、もうどこにもかける言葉は残っていなかった。まだ何かあるような気がする。まだ何か…………でも、今は言葉が出てこない。
フィリアは立ち上がった。
償うこともできない以上、彼の側にずっと留まっていたかったが、それも許されないらしい。
最後に、何か。
「過去を清算して、未来に進めるのなら、それでもいいでしょう……もし進むべき未来が、そして希望とが貴方の中に見いだせたら……そのときは……」
振り返った。彼の苦痛は少しおさまったようで、自分を見上げる眼には今も憎悪の光がある。それはそれでよい。
「そのときは私を殺しにきてくださいね」
信じている。
それが遠い未来ではないことを。