【リムーブカース】PRAYER FOR DYING (未完)

ニューヨーク郊外DIA−アメリカ国防省−セブンズ・セクション。
(SFの世界だぁ……)
口に出して言うほどの語学力がないのは彼女にとって幸いだった。いかにも田舎モンの国から出てきたような感想を胸にしまいこみつつ、白衣姿の金髪美人が入れてくれたコーヒーを口に運んで彼女は溜息をついた。
柊夏菜。18歳。その名が示す通り、国籍は日本。首都東京の西端、八重垣市に住む都立高校の3年生。バスケット部所属だが万年補欠。成績−中の上。イマイチ発育不良ぎみな胸が悩みのごくごく平凡な女子高校生である。
自分のプロフィールと今自分がいるこの場所のギャップを考えて、さらに溜息をもう一つ。
(浮いてるよなぁ……)
目の前で忙しそうに立ち働く人たち−−特に女性達−−はいかにも有能そうで、自信に満ちあふれている。
(やっぱ、止めとくべきだったかな……でも他に方法ないし)
「退屈かしら?」
ふいに日本語で話し掛けられて夏菜は弾かれたように顔を上げた。コーヒーを入れてくれた白衣の女性−確かこの医科局のチーフでクレア・オズボーンといった−が微笑んでいる。
「あ、いえ、そんなことないです」
「ごめんなさいね。もう少しだから」
「はい、あの、おかまいなく」
コンプレックスを刺激される人間に相対するとつい下手になってしまう。正直なところ早く終わってほしかった。今朝から検査につぐ検査。無理矢理微笑んだ瞬間に、
「ハーイ! カナ!! どうだい、調子は?」
陽気な声がして、背後の扉が開いた。
「ケイツ。入るときはノックしてと言ってあるでしょう」
「ごめんよ、クレア。でもカナくんに一刻も早くこのニュースを教えてあげたくってね」
言って、ひらひらと左手のFAXと思しき用紙を振ってみせた。
ケイツ・マードック。ガリガリのメガネの彼はどうみても一日机にかじりつきっぱなし、という学者風情だが、これでもアメリカ国防省が誇るセブンズ・セクションの「実動」部隊の一員である。……一応。
「カナ。喜んでくれたまえ! ついに見つかったんだよ!!」
「見つかったって……まさか」
「そう! お待ちかねの『彼』さ」
ちゃめっけたっぷりのウィンクをくれる彼はやっぱりどうみても軍人には見えなかった。そもそもなぜ一介の日本の女子高校生にすぎない彼女が、それも受験もさしせまったこの時期に勉強そっちのけでアメリカ国防省などにいるのかというと−−それは『彼』のせいなのだ、多分。
それはほぼ1年半程前のこと。
突然現れた黒ずくめの超ハンサムに命を狙われたのを皮切りに、夏菜はアメリカの軍隊に誘拐されそうになるわ、当時片思いの先輩に誤解されるわ、美人だけど風変わりな友人ができるわ、金髪美形貴族に騙されるわ、あげくに古代のおーぱーつとかいう武器を操って、天使と一大SF血戦をくりひろげるはめになった。結局、そもそもの原因である黒ずくめの青年、陣内悟との別れを最後にそれらの混乱も全て終息したのだが、それでめでたしめでたしとならないところがやっかいな乙女ゴコロというやつ。
すったもんだの混乱の中でなんだかんだ言いながら結局彼女を守ってくれた陣内悟に、彼女はやっぱり、、、、、となってしまったわけだ。5000年前。
夏菜の前世であるバビロニアの女王ルジカシュナと、陣内悟の前世であるフェニキアの大元帥サルトルは果たし合いをしたらしい。
そしてお互い相打ちとなったのだが、その時お互いが神を冒涜したことにより呪いを受けた。
その呪いによって、サルトル=陣内悟は天国への扉を閉じられた。輪廻の輪を外れ、転生しつづけていく呪い。何度生まれ変わっても前世の記憶を保ちつづけたまま。肉体が滅んでも、同胞が塵芥に還っても、祖国が歴史の闇に消えてしまっても、何度も、何度も。そうして彼は5000年という時間を生き続けることになった。
呪いを解く方法はたったひとつ。彼と同じ呪いを受けたはずのルジカシュナと決着をつけること。
けれど何度やっても決着はつかず、相打ちのまま−いつしか彼は神そのものへの復讐者となった。
そして彼と互角の戦いを繰り返したというその女王ルジカシュナの転生体というのが−−。「このあたし、というわけなんだよね」
サルトル・ザ・マーキュリアンに関するデータ、と書かれた膨大なファイルを前に彼女はしみじみと自分を振り返ってみる。
当然ながら彼女にはルジカシュナだったころの記憶などなかった。生まれたときから「柊夏菜」で、それ以外ではありえない。前世の因縁なんで果たし合いしましょう、なんて言われてもこの人、変態? というのがせいぜいだ。
ましてルジカシュナという人に関するデータを読む限り、どこをどうつついても自分と共通点など見いだせないのだ。
そして、サルトルである陣内悟が求めているのはその「ルジカシュナ」なのだから。
恋敵は5000年前の自分。これはそうとうに救われない。
(でもだからってもう諦めたりしない)
そう決めた。彼と別れた、その次の日に。
手のひらに握り締めた一枚のファックス用紙。陣内悟をフランスの核実験場近辺で見かけたという情報。そして未確認ながらという断わり書きつきで1枚の写真が添えられている。
『間違いなさそうかね? カナくん』
チーフ・ツーポイントの言葉に彼女は力強くうなずいていた。
黒づくめの長身。右手に巨大なライフル。そしてその側に付き従う彼とは対照的に白づくめの少女。水蓮だ。
陣内悟が古代の超ハイテクを使って作り上げたオートマータ。
(よかった、、、元気そうで)
表情のない水蓮の感情を読み取ることは難しいが、最後に会ったときと変わりない彼女の姿が夏菜には嬉しかった。
(これ……ウチの制服じゃん)
短いあいだとはいえクラスメートだったのだ。彼女もそれを忘れてくれていない。この写真がそう伝えてくれているような気がした。
(会えるよね、、、、きっと)
会いたい、会いたい。そんな気持ちばかりが焦っていた日々の中でようやく見つけた光明だった。
会いたくて、でもどうしたらいいか分からなくて、ついにアメリカの国防省のホームページに載っていたメールアドレスにメールを出したのだ。少ない語学力を駆使して「To:DIA,
Seven’s Section Cheif Twopoint From:Kana Hiiragi」と。本文は日本語で書いた。何度も出し続けてようやく返事が来たのが半年後。
そしてツーポイント大佐の第一声はこうだった。
『本気(マジ)なのかね、夏菜くん』
もちろん本気も本気。大本気だった。

そこから先の騒動については正直思い出したくない。
両親は泣きわめいたし、友人一同は驚き、呆れた。担任の館岡も日参して説得しようとした。
『なぜ今なんだ。卒業してからでもいいじゃないか』
誰もがそう言った。でも待てなかった。
自らの血と細胞とを提供し、検査に応じるかわりに陣内悟を探し出して会わせろ、という彼女の要求をツーポイント大佐は−−というよりアメリカ国防省はのんだ。無謀ともいえる賭けだったが、それでも他に彼とコンタクトを取る方法がない。ぐずぐずしていたらどんどん彼が遠い存在になってしまう。
誰の説得にも耳をかさず、半ば家出するような形で夏菜はアメリカの地を踏んだ。ただ1本の赤い剣だけを持って。

「もうじき会えるのね。楽しみ?」
写真に見入っていた夏菜にクレアが話し掛けてきた。
「え、あ、はい」
「そう……でも彼の方はあまり会いたくないかもしれないわよ。それでも?」
普段とは違う、試すような表情のクレアに、夏菜はここ数日彼女に抱いていた感覚を認めざるをえなかった。
(この人は私を嫌ってる)
愛想はいいし、通り一遍の気は使ってくれていると思うのだが、それはどこか義務的な感じがしていた。
はじめは、あまり芳しくない検査結果や、東洋人に対する偏見からかとも思ったのだが、スタッフの中にいる東洋系に対しても彼女は分け隔て無く公平だ。なのに夏菜にだけはなぜだかどこか冷たい。
「どうしてあなたなのかしらね」
「はい?」
「彼のこと、どのくらい知っているの?」
「ええと、、」
クレアの言葉は科学者らしく断定的で容赦がない。
「彼の持つ技術力ももちろんだけど、彼自身の情報分析力、判断力、実行力、運動能力は人間の域を越えているわ。5000年分の記憶というだけでは考えられないのよ。メルクリウス財団をたった2年で作り上げる一方で、アメリカの最精鋭部隊と古代の武器なしでも互角にやりあってる。そんな彼がどうして……」
まただ、と夏菜は思った。悟のことを語るとき、クレア・オズボーンの表情は熱を帯びたようになる。口調に力が入り、視線が空をさまよう。
(この人は悟のことを……)
それは確信に近い予感だった。この科学者は陣内悟という人間に研究対象に抱く感情を越えたものを持っているのだ。
そしてだから私が嫌い。
その理由は非常に分かりやすく、夏菜は自分で出したこの結論に納得した。
「あなたはもう昔の記憶はないんでしょう?」
「はい」
「なのに、彼に会ってどうするの?」
会わせたくない、という本音が口振りにはっきりと現れていた。
「会いたいからだと思います」
「それだけなの? そのために家族も何もかも犠牲にして?」
「それだけです」
彼女はまだ何か言いたそうだったが、もうそろそろ終業時刻が来ていた。
夏菜が彼らの検査につきあうのは10時から16時迄と契約で決まっている。
また明日ね、と彼女は言って席をたった。本日の成果を確かめにいくのだろう。それは時間と労働の無駄でしかないことを夏菜は本能的に知っていた。

 

夕闇の迫る川べりを歩きながら、夏菜はぼんやりと悟を想う。
この時刻、美しく赤く染まった夕日に照らされた川面は、かつて彼と相対した彼女の故郷の川を思い出させた。
いまどこでどうしているだろう。
時の流れに置き去りにされてしまった人は。
『俺を、滅ぼしてくれ』
あの、夕陽の色で埋め尽くされた河原の芝、空、雲、大地。そして彼の削げぎみの頬。あの赤い瞬間の全てを、突き上げるような切なさとともに、夏菜は覚えている。
彼のあの血を吐くような叫びも。
『お前は何でも持ってんじゃねえかよ! 家族も、友達も、生活も! 俺にはなにもねえんだよ!!』
『どうしてお前だけなんだ! どうして俺には何もない?!』
あげる、あげるよ。私の持っているものなら何もかも。
あなたを置いて一人で幸せになってた。あたりまえに幸せで、それが不満な程に傲慢でいた自分が許せなくなるからあなたにあげる。
今度は−−あなたが私を滅ぼして。
そんなことで自分を責めるのがどんなに馬鹿げたことかはよく分かっていた。彼が聞いたらきっと怒る。それでも。
「会いたいよう……」
会いたいと思い、会わなければならないと決意し、祈るように、立ち向かうように神を呪う。
あの人とずっと一緒にいたいよと。

『誰だって?』
ジャミングだらけの空間でも、古代のハイテクを駆使する彼にはいっこうに関係ないはずだ。
それなのに聞き返すのは、聞き取れなかったからではなく、単に聞いたことが信じられなかったからだろう。
−−不合理だ。
「夏菜さんです」
それでも、正確に彼女は彼の質問に応えた。
『だからそれがどうしたってんだ』
苛立っている。不愉快なら最初から聞き返さなければいいのに。ふーん、そう、で流してしまえばいいのに、それができないなら私に当たるのは止めてほしいと、乏しい感情で彼女は不満を考える。
「夏菜さんが来ています。この国に。ついでに申し上げればDIAの3人も一緒です」
『………なんでだよ!!』
短い沈黙の後に、パニくったような主の声が聞こえる。
『なんで夏菜があのお笑い漫才トリオとフランス旅行なんかしてるんだ!! 俺だってせいぜい大平洋どまりだってのに!』
SECDE(フランス情報局)を鼻であしらう男のこの狼狽ぶりを水連は黙って受け流した。
『アイツは今頃、中間試験の真っ最中のはずだろうが! 今日はアイツの苦手の数学と物理だぞ! 2限目は得意の古典だけどそれだって上の下くらいで……』
そんなことまで知ってたりするからストーカー呼ばわりされるんですよと、良識ある人間なら注意してやるところだが、あいにくと水連にはそんな思考回路はなかった。どこか、、、いやかなりズレた主の発言を丁寧に訂正する。
「時差がありますから、正確には今は中間試験中ではありません。明日からです」
『そそそ、そんなことはどうでもいいんだよ!!』
そう。確かにどうでもいいことだ。問題なのはそんなことではない。
『なんだって、今さら、、、、っ、、畜生ッ!』
そして回線は切れた。
水連は丁寧に受話器を置き、電話ボックスから出る。
たった今まで衛生回線を通じてドーバー海峡沖合いのフランス海洋艦隊とやり合ってる人間と公衆電話で話していたなどと、誰も思わないだろう。
プラタナス並木が夕闇の空にざわざわと葉を揺らす。ゆっくりと彼女は家路についた。

一方の電話の相手は、彼女とは対照的といえた。
手許で携帯電話−−に似ているが実は回線であれば光通信だろうと赤外線だろうと衛生回線だろうと入り込むスぐれものの音声通話機だ−−をぐしゃりと握りつぶすと、涙声で呻いた。
「畜生、、、、殺してやる、、、あの野郎ども、、、、」
何に嫉妬しているのやら目も涙ぐんでいる。
とりあえず目の前の海洋艦隊に八つ当たりをすることに決めて、彼−−陣内悟は両腕に装着したホーミングレーザーを全開モードで発射した。
そこから200kmほど離れた陸地で、ツーポイント大佐がくしゃみをしたかどうかは、、、、分からない。

「夏菜くん。どうしたね?」
ツーポイント大佐が慣れたイントネーションで話し掛けてくる。
普段、迷彩柄の軍服姿の彼は、本日は黒の燕尾服に赤い蝶ネクタイである。冗談みたいな格好だがわりとさまになって見えるのは場慣れしたような態度のせいだろう。
「いえ、あの慣れてないもんで、あはは」
対する夏菜もピンクのドレス姿。急に出席することが決まったパーティだったので、今日買ってきたばかりのものだ。経費はもちろんDIA持ち。いい身分になったものだ。それにしても靴があわないのには閉口していた。
(こんな高いヒールじゃ歩けないよう)
店員に服とともに勧められたのを鵜呑みにして買ったのが間違いだったかもしれない。
「ところで、ツーポイント特佐」
「しいっ! ここではツーポイント特佐などと呼んではいかん。ワンセット書記官と呼んでくれたまえ」
「はぁ……じゃミスター・ワンセット」
ツーポイントにワンセット。誰が考えたのか知らないが、いまいちネーミングセンスを疑う。
「なんだね?」
「これは何の集まりなんですか」
フランスについたのは2日前の朝。ついた日は外交上の手続きがどうたらで、ホテルから一歩も出られず、昨日はフランス語の猛特訓をさせられた。そして今日。いきなりパーティがあるからと大佐に連れてこられたのだ。
夏菜の前には着飾った男女数百名が優雅な談笑とともにダンスに興じている。
「ミシュエル公爵閣下の孫娘の14歳のお誕生会だ」
「はあ?」
14歳の娘のお誕生会にしては集まっている面子は随分と年をくってないだろうか。
「ま、別に意味などあるわけではない。ただ子煩悩なお爺ちゃんの自己満足だな。だがミシュエル公爵はフランス政財界の大立者でヨーロッパ一の銀行の総裁なのだ」
「へえ」
いずれにせよ雲の上の世界の話だ。
奮発して買ったドレスもこの男女の中にまじると既成(プレタポルテ)の安物に過ぎない。なにせここはオートクチュール発祥のお国柄だ。すぐ目の前にいる10歳くらいの少女の服でさえ、夏菜のより上等そうだった。
それでわざと壁の花になっている。
そうでなくても東洋人の夏菜と黒人の特佐…もとい、ミスター・ワンセットは目立つ。
「夏菜くん。少しは食べておきたまえ。このキャビアなど絶品だぞ」
「あ、いえあんまり……」
ろくに言葉もわからないのに、緊張してのどを通るどころではない。話し掛けられたらどうしよう、どうか誰も気付かずにいてくれえと願うばかりだ。
「食べておきたまえ。空腹だといざというとき逃げられんぞ」
「へ?」
それはどういう意味だろう?
疑問符を顔に浮かべた夏菜に特佐はキャビアをスプーンで口に運びながら答えた。サングラスをかけた顔の表情は常にもまして読めない。
「実は、DIAの内部でキミの契約期間を延長しようという意見がある」
契約期間。それは研究体としての夏菜の調査期間のことだ。最初は2年ということになっていた。
「契約期間は終身。つまりほとんど監禁同様というわけだな」
「え!」
「理由は言わんでもわかるだろう。キミに関する研究成果がまったくあがっていないからだ。体組織、血液、DNAにいたるまで調べ上げても成果はゼロ。研究チームが焦るのも無理はない。いっそのこと解剖をという声もある。脳だけは頭を切り開かん限り手に入らないからな」
次第に青ざめていく夏菜と対照的にのんびりと、特佐は2杯目のキャビアをおかわりした。
「まあさすがにそれは無理というものだが。キミを解剖することはアメリカ合衆国を壊滅させるのに等しい行為だからね。それなら一生手許に置いておこうと……ま、そういうことだ」
「それならなんで」
そんなことを話すのか、という夏菜の声を遮って、特佐が人さし指を上げた。
「夏菜くん。お待ちかねの彼だよ」
大佐の節くれだった指の先に……彼がいた。
「メルクリウス財団はこのヨーロッパ一の銀行の主要顧客の一つでね」
黒づくめの、けれどいつもの学生服にダブルのコートではなく、堂々たるタキシード姿で。
全世界の半分の富を支配する財団の総帥という、彼の肩書きの一つにふさわしく。

長身の影。腰までの髪がシャンデリアの光に照らされて。削げた頬に刻まれた微かな微笑。
最後に会ったときより背が伸びただろうか。黒髪の双貌は何も変わっていないように見える。いや、違う。
少し大人びた感じになった。顎の線とか、口元とか。底光りするような瞳の光だけは以前と同じままだ。
何か言いたいけど、言葉にならなくて、カナはただその姿を見つめていた。崩れ落ちそうになる。信じられない。こんなに離れていられたなんて。会わずにいられたなんて。
「行かないのかね?」
感涙の海に沈んでしまったカナの隣でキャビアを手放さないツーポイント、、、もといワンセット書記官が声をかける。
「ツーポイントさん……」
「こら、その名で呼んではいかんといっただろう」
「ごめんなさい、ワンセットさん……」
「なんだね?」
「どうしよう……」
「?」
「あたし、足が動かない……」

声どころか足も震えている。こみあげてくる熱い息のかたまりが胸をふさいで、呼吸がくるしい。
ゆっくりとこちらに近付いてくる長身が、周囲の注目を集める。
目の前まで来ても、まだカナは自分の見ているものが信じられないでいる。
「夏菜」
気をきかせたツーポイントは、そっとカナから正確に1m離れた。
ついでもう1m。
夏菜の前に立った長身の美丈夫が、およそ今の彼の立場に相応しからぬ剣呑なまなざしで、彼をひと撫でしたからだ。
ほんの一瞬だったが、生っ粋の軍人であるツーポイントにははっきりと感じ取れた。その心は、
「てめぇ夏菜を勝手に連れ出しやがって覚えてやがれよコラ」。
古代人類叡智の全てを極める男の物騒な敵意に内心ですくみあがりながらも彼は必死で「見ないフリ」をすることで保身を保った。

「夏菜」
彼女に対しては先ほどの剣呑な視線などおくびにも出さず、陣内悟はそっと手を差し伸べる。
はたからみれば「踊っていただけますか?」の姿勢なので、周囲の貴婦人達の嫉妬に満ちたまなざしがいっせいにカナに集まった。
さっきまでならたちまち畏縮していただろうが、今のカナにはもはや悟以外の全てが視界から消えているのでノープロブレム。
悟の手をとった時も自分が何をしているのか今イチ把握できていなかったし。
もうひたすら目の前の懐かしい顔をまばたきもせずに見つめていた。
「カナくん……足が地についておらんぞ」
呆れたふうでつぶやいたツーポイントだったが、二人とも全く聞いていないのは明らかだったのでもう余計な口ははさまないことにして3杯目のキャビアをおかわりした。
ダンスの輪の中で、黒髪の美丈夫と日本人のカナはそうとう目立つ。
「はて……? カナくんはダンスなど踊れたかな」
むろん踊れるわけがない。ちゃんと踊れているように見えるのは悟のリードのおかげで、下手に足をふんずけたりしていないのはカナの頭が「ぶっとんで」いるおかげだ。意識していないのでかえって逆らわず、素直に動けているのである。

「悟……?」
そっと名前を呼んでみる。
目の前の粗削りの美貌が照れたように微笑んでいる。
「悟……ホントに?」
「ひさしぶりだな……夏菜」
懐かしい声。囁くように紡がれる声。指先に伝わる温かい手のひらの体温。永遠に聞いていたい。もっと話したい。なのに言葉が出てこない。
「ハ……ッ、なぁにやってんだよ、こんなとこで」
「悟こそ……今までどこにいたの?」
しかし、考えてみれば世界中を飛び回っている彼がこの場にいるのは別に不自然ではない。
悟の方にしてみれば単なる女子こーせーに過ぎないカナがいきなりフランスに現れたことの方が不思議だろう。
「あたし、あたしね……!…………………………………………会いたかったんだよ」
勢い込んで事情を説明しようとして、結局尻すぼみになってしまった。だって何からどう説明していいのか分からなかったのだ。
「……俺もだよ」
耳もとで聞こえた呼吸の音。抱き込まれる髪。頭の上に感じるサルトルの頭の重み。チークタイムに入ったのだと気がついたのはずっと後だった。
タキシードの胸元に頭を預ける。知っている匂いだ。ずっと欲していた匂いだ。真新しい布の匂いに混じって感じる悟の匂い。わずかに潮風の匂いが混じっている。そういえば最後に別れたとき、アラスカにでも行くかって言ってたっけ。
「あのね、あのさ……サーモン釣れた?」
「え?」
「アラスカ行くって言ってたじゃない。前に」
「ああ」
思い出したように悟は苦笑する。
「いや……行ったのはシベリアでさ……」
「なんで、シベリア? 方向逆だよ」
「間違えたんだよ」
本当は呑気にアラスカでサーモン釣りなんて気分になれなかったのだ。思いきり寒い国に行って自分を鍛えたかった。
忘れたくて、だけど思い出すのは彼女の顔ばかりで、辛くて発狂しそうで、だから暴れた。
国境沿いを荒し回る盗賊団だの、中国兵だの。かたっぱしから壊し回ってロシアと中国に第一級臨戦体制をしかせたこともあった。
シルクロードを旅してイラクの防衛戦を突破し、東欧からフランス入り。そろそろニースあたりで静養でもするかと思った矢先にSECDEの小競り合いに巻き込まれた。
でも天は彼を見捨てなかった。一度は諦めた彼女が今こうして彼の目の前にいる。
ルジカシュナではない、夏菜が。

夏菜」
「? 何?」
「走れるか?」
「え?」
完全に二人だけの世界に入り込んでいたので気付くのが遅れた。
しきりと目で合図を送ってきているツーポイントの背後で、CIAと思しき連中がこちらを窺っている。
まさか彼に喧嘩を売る気はないだろうから、狙いは夏菜だろう。せっかく自分達の元に転がり込んできた貴重なサンプルがかっさらわれはしないかとああして監視しているわけだ。
(もー遅ぇよ)
内心盛大に舌を出しつつ、悟は夏菜の手を引いて、さり気なく入り口の方に踊りながら誘導する。
曲が途切れた一瞬の隙をつき、ダッシュで走り出した。
大慌ての連中が追ってくる頃には、彼のフェラーリ・F40はパリの大通りを疾走していた。

湾岸に泊めてあったクルーザーに走り込んだフェラーリから降りると悟はすぐに船を港から出した。
わけのわからない様子の夏菜が手足をこすりこすり(勢いよく車に押し込められたためにあちこちぶつけたらしい)、
「どこに行くの?」
と聞いてくる。
「とりあえず、フランス脱出だ。ドーバー抜けて地中海へ出るぞ」
彼なりの考えがあるのだろう。わけもわからず反論しても無駄だと思ったので、夏菜は別の懸案事項を口にした。
「ツーポイント特佐にお礼言うの忘れちゃった……」
「ほっとけ。あんな黒ダルマに礼なんか言う必要ねぇよ」
「でも、あの剣、あの人たちに預けたままなんだよ」
夏菜の赤い剣は肌身はなさずもっているようにしているが、このフランス行きは急に決まったためにアメリカに置いてきてしまった。組成金属すら不明、というあの剣は夏菜と同じくDIAの研究対象だが、夏菜と同じくらい成果は上がっていないらしい。
夏菜が悟に攫われてしまった今、彼等がそう簡単にあの剣を手放すことはないだろう。
「あれってただの剣、、、じゃないよね?」
「どうだろうな。俺と戦ったときは別に何の変哲もない剣だと思ってたが……」
「違うの?」
「ルジカシュナはどうも俺より先に超古代の技術を知ってたらしいからあれもその一つかもしれない」
「そうなんだ……取りかえした方がいいよね」
「じゃあ大西洋渡って行ってみるか」
こともなげに彼は言い、その時点で夏菜はあることに気がついた。
「ねぇ……水蓮ちゃんは?」
砂村水蓮。アルビノの美少女は悟が古代のオーバーテクノロジーを使って作り上げた、いわく「手塩にかけて育てたムスメ」である。常に彼の傍らに寄り添っていたはずだ。それが今はいない。そういえばパーティの時もいなかった。
「あーーー、あいつは今パリのなんとか言うお嬢様学校にいる」
「パリの学校? なんでまた?」
「お前と一緒にしばらく日本の高校通ったろ。そのせいで学校フリークになりやがったらしい」
「学校フリークぅ!?」
「あっちこっちの国にいっちゃあ学校に通ってるよ。出席日数はギリギリらしいが」
「え……でもそれじゃあ向こうに置いてきちゃって大丈夫なの?」
「大丈夫だろ。あいつは自分のことは自分でなんとかするさ。連絡も取ろうと思えばいつでもとれるし」
「そうなんだ……」
彼女の冷静な表情や落ちついた声を思い出し、夏菜は安心する。そう。水蓮は大丈夫。
「それより、腹減らないか?」
そういえば。
ろくにパーティ会場では食べられなかった。
「ああん。そうだったぁ! あんな料理めったに食べられるもんじゃないのにぃ!」
かくして、リビングらしきキャビンの中で、簡単な食事がはじまった。
簡単な、とはいえテーブルの上に並べられた山海の珍味に夏菜は目を丸くする。
「どうしたの、これ」
「ふっふっふっ。甘く見るなよ夏菜。俺の料理の腕はプロ級だぜ」
タキシードの上だけ脱いだサルトルが両手に皿を乗せてキッチンから出てきた。
はっきり言って夏菜より数等うまそうだった。
さらに2個のグラスを左手に、右手に高そうなワインのボトルをかかげてみせる。
「どさくさに一本だけくすねてきた。見ろよ、ドン・ペリだぜ」
なんかわかんないけど、悟の自慢げな口ぶりから高いワインであることだけは分かった。
いつの間にと感心しながら、夏菜は目の前に注がれた赤い液体を見つめる。
「あたし、飲んだことないんだけど……」
「ああ? お前いくつになったんだよ」
「まだ高校生だよっ! 18なんだからっ!」
「最近の高校生で18っつったら酒もタバコももうすませてておかしくないだろ。ワインなんて水みたいなもんだ。ぐっと行けぐっと!」
だんだん昔の悟の調子に戻ってきたようで、夏菜は笑い出したくなった。
「うーーん、それじゃ、再会を祝してってことで!」
そうしていきなり半分まで飲んだのが間違いだったと、夏菜は後になって後悔する。

「あーあ。お前もうちっと考えて飲めよ。ジュースじゃねぇんだからいきなり空けるやつがあるかよ」
夏菜の顔がまっかになってしまったのを見て傍らに座った悟があきれたように言った。
「ほら、大丈夫か?」
「うーーー。なんか世界が回ってるような気がする……」
「回ってんのはお前の頭だよ。ほらしっかりしろ」
肩を掴まれて起こされる。はっきり言って意識はしっかりしているという自覚があるのだが、体が思うように動かない。
そうかあ、これが酔っぱらうってことなのかぁと、夏菜は呑気に思った。
「大丈夫か?」
もう一度悟が言い、夏菜の顔を覗き込んだ。
「悟……」
「ん?」
「会いたかったよ……」
いきなり何を言ってるんだと自分でも思ったが、至近の距離で覗き込まれたのと、お酒のせいで調子が狂ってしまっているらしい。
「悟は? 迷惑だった? ほんとはね、記憶が戻ってるわけでもないのに、押し掛けるみたいで悪いかなって思ったの。だって、悟が探してるのはルジカシュナって人で、あたしじゃないでしょ? そりゃああたしはその人の転生体らしいけどはっきり言ってその自覚全くないもん。でもね、あたしはサルトルじゃなくて悟に会いたかったの。日本人で、普通の高校生みたいな悟に……」
「夏菜」
「ごめんね。会いたかったの。それだけなの。迷惑かけてごめんね」
情緒不安定になっているようだ。
たった1本あけただけなのになぁと悟は妙に感心した。夏菜は本当に真面目なヤツだ。
「ねぇ、迷惑だった? 何か言ってよ、でないとあたし、身の置きどころないよ。だって勝手に押しかけちゃってこんな……」
押しかけるも何もパーティ会場から攫ってきてしまったのは悟の方なのだが。
夜。二人っきりのクルーザーの一室。しかも海のど真ん中で、5000年前からの恋人にこんな切なそうな瞳でこんなことを言われて、悟はつい彼女を押し倒してしまった。
「ひゃあっ!?」
夏菜はいきなり逆転した天と地に目をぱちぱちさせる。
薄い灯りのともった天井が目に入ったのは一瞬だけ。
その一瞬の後にはまたしても至近距離で覗き込んでいる悟の顔が映る。長い髪が夏菜の肩に触れて、ソファに流れる。
「さささ悟!?」
「夏菜……いいだろ?」
(!!!!!!)
言われた言葉の意味が分からないほどお子さまではないつもりだが、いやしかし。
「あのさ、あの、もしかして悟も酔ってる?」
「ばーか、あれしきの酒で酔ったりするかよ」
さっきよりさらに顔が近付いた。
「じょ、冗談、、、だよね?」
「このシチュエーションでか?」
あと数センチで鼻先が触れあう距離である。のしかかる彼の重みが夏菜を束縛している。
「でもっでもほら、あたしたち高校生だしっ!」
18才と20才で洒落にもならないことを夏菜は口走った。
「この年になれば別に珍しくもないだろ。18才って100年前なら立派ないかず後家だ」
「今は21世紀で、平均結婚年齢は25才なの!!」
そう怒鳴った後、目を開くと、さっきの数センチが数ミリの距離にあった。
「処女喪失の平均年齢は日本でも17才だっていうぜ」
「どこで取ったのよそんな統計ーーーー!!!」
遅かった。叫んだ瞬間に唇を塞がれ、夏菜の思考は焼ききれたようにホワイトアウトした。

 

 

 

「夏菜? ……おい、夏菜?」
反応がないのに気がついてふと揺すぶってみると案の定夏菜は気を失っていた。
過度のアルコール摂取と精神的ショックの相乗効果らしい。
「おい……そりゃあねぇだろ……」
せっかく盛り上がってたところなのに……とうなだれる悟を知らぬ気に腕の中の夏菜は安らかな寝息をたてている。

「父さん」

どうするかなーーと思案する悟の背後から、ふいに冷静な声がかかった。
「うわあ!!」
驚いて振り返ったその先にはいつの間に来たのか、白い美貌が彼を見つめている。
「……どうかした?」
別に責めているわけではないのだろうが、感情の隠らぬ口調だけに、ヨコシマな気持ちでいるときにはついやましさを感じてしまう。
「いやなに」
なんとごまかそうかとつい視線もそらしがちになる彼に、不思議そうな表情が向けられたが、水蓮はそれ以上何の追求もしてこなかった。
育て方を間違えなくてよかったと都合よく安堵する彼に、すっと差し出されたのは赤い鞘に収まった剣。
「……どうしたんだ?」
「持ってきてくれたの」
「DIAの連中か?」
「そう。赤い髪の白人」
「そういやいたなそんなんが」
お笑い漫才トリオの名前はいちいち記憶していないが、あのひとそろいの中に確かそんな容姿のがいた記憶がある。
「夏菜さんにもよろしくって」
「……わかった」
夏菜を怪し気な実験に使おうなどと考えていたのなら、合衆国ごと地図の上から消してやるところだったのだが、それを察して先にわびを入れに来たのだろう。どうやらまだマトモな判断力は残っていたらしい。
「お利口さんだな。その調子で建国200年の歴史を大事にしろや」
夏菜の前では決して見せない残忍ともいえるほどの笑みを浮かべて、彼は剣を壁際の彼の剣に並べて立て掛けた。
持ち主同様ようやく彼の元に戻ったわけだ。
ソファで眠る夏菜に、肩を冷やさないよう上着をかけてやって感慨深気に室内をぼんやり見回す。
ささやかな幸福というのはこういうのをいうのだろうか。ここ5000年ばかり味わったことのない至福のひととき。
「……父さん」
「ん?」
常とかわらぬ水蓮の声さえ、小春日和の鳥の声を思い出してしまうほどに彼の頭の中は幸せぼけしかかっていた。
「寝込みを襲うのはよくないわ」
途端に彼のささやかな幸せの時は崩れ去る。
「どこで覚えた、んな言葉ぁっ!!」
ソファからずり落ちながら、彼は背後の水蓮に喚く。
能面のように無表情なその表情に、わずかながら笑いの微粒子が混ざっているような気がするのは気のせいだろうか。
しかし継がれた言葉は彼を現実の問題にたちかえらせた。
「夏菜さんをずっとここに置くの?」
虚をつかれたように、悟はソファの夏菜を振り返る。
「……そんなわけにはいかないだろ」
夏菜は自分とは違う。彼女は解呪を果たしたのだ。もう過去に捕われる必要などない。
彼とは縁もゆかりもない、ただの少女だ。
「日本に……連れて帰るさ」
そして彼女は普段通りの生活に戻るのだ。普通に学校に行って、普通に働いて、普通に恋をして、普通に生きていく。
いいじゃないか、それで。
彼はそれを影ながら見守っていればいい。今までのように。
「父さん」
「ん?」
飽きもせずやすらかな寝顔を見つめる彼に並んで立ち、水蓮は続ける。
「別に、既成事実優先でもかまわないんじゃないかしら」
「だから、お前はどこでそんな言葉を覚えてくるんだ!!!!」
思わず大声で怒鳴った後、夏菜が起きるんじゃないかと気付いて声のトーンを落とす。
「オレはお前をそんなふしだらなムスメに育てた覚えはねぇぞ」
「でも戸籍も社会的地位も財力も歳の差も問題ないわけだし」
「なんの話だ」
「夏菜さんの御両親を説得する要素の話」
学校フリークになった挙げ句にとんでもない知識を仕入れてきたらしい。
「5年ほど辛抱すれば大丈夫だと思うわ」
「何を辛抱するんだ、何を……!!」
「自信を持って。パパは素敵よ」
真顔で言われて(というよりこれがいつもの彼女の顔なのだが)悟はめまいを覚える。
「聞くがそれはほんとーーーにどこから仕入れた知識なんだ……?」
「この間テレビでやってたの。金曜の8時の連続ドラマで、子持ちやもめの40過ぎの男性と18歳の女子高生の恋愛ストーリー」
「誰が子持ちやもめの40過ぎなんだコラ」
「歳の差カップルは流行りなんですって」
「聞いてねぇし」
「でもストーカーと純愛は紙一重よね」
「お前は唆してんのか、蹴落としてんのかどっちなんだ!!!」
「でも好きなんでしょう?」
「う……」
いきなり核心に斬り込まれて悟はたじたじになる。どうも最近この娘は一人立ちしつつあるようだ。それはそれでいいのだが彼に対してヘンな世話意識まで目覚めはじめたようなのが気になる。
(つい最近まで食事も着替えも全部オレに世話させてたくせに……)
「せっかく夏菜さんの方から追い掛けてきてくれたのに、また逃げる気なの?」
「う……」
「思い遣りは過ぎれば相手を無視することと同じだっていうわ」
「お前、ホントに世間ずれしてきやがったなぁ……」
確信犯的な口調にやり込められて説得されてしまいそうな自分が怖い。
「男は決断あるのみよ」
「ホントに意味がわかって言ってんのか?」
トホホな気持ちになりながら、悟はソファに腰をおろした。
夏菜は何も知らぬ気にまだ眠りの園の中だ。美女を起こした王子は相手の気持ちを考えたりはしなかったのだろうか?
ふとそんなおとぎ話にまで思いおよんで、悟は苦笑する。5000年生きても予測のつかないことというのはあるものだ。
弟子が転生していたり、娘が一人立ちをはじめたり、数万キロ彼方にいると思っていた恋する相手が隣で寝ていたり。
気がつくと、水蓮はいなくなっていた。元の場所に戻ったらしい。
『どうするの? 父さん』
姿を消した娘の声だけが室内に残っている。
決断は容易いが、予測のつかないことが多すぎて彼はためらう。最大の懸念は彼女を幸福にできるかということ。そして一度手に入れた彼女を再び失う事態を想像してしまうこと。その痛みに自分が耐えられるかということ。
彼女と彼がいつか年老いて彼女が死んでしまったら。それっきりだ。
またやり直せばいいと思う程、彼は本当は強くなかった。守るものがなければ強くなれない。
(どうすればいい……?)
こればかりは古代のハイテクも解決してくれない。
眠る彼女とそれを見守る彼を乗せて、船は月夜の海をゆっくりと進んでゆく。