『一人で生きていけるように強くなりたいだって?
お前、ホントに意味分かって言ってんのか?』
それはまだ彼が孤独も絶望も知らなかった頃。
そして幸福の意味も知らなかった頃。

ネリン・シモンズ嬢がその日持ってきた書類一式と思しきものはやたらに分厚かった。
しかも箱入りだった。いや箱なんてかわいい言い方でおさまる部類ではない。
引越し用のダンボール2箱分の書類。
珍しく車で乗り付けてきて、扉を開けてやるなりつきだされたそれを、ついうかうかと受け取ってしまったレイオットは思わず顔をしかめた。
「おい。まさかこれ一式全部サインしろなんて言うんじゃ・・・」
「まさか」
とりあえず居間に運び込むと、ネリンは座り込んでビニールテープをひっぺがす。
中にぎっしり詰まっていたのは少し古びた本の山だった。
厚めのハードカバーから薄いホチキス止め小冊子まで、さまざま種類も揃ったそれらを、ネリンは丁寧に取り出しては軽く埃を払う。
まず目に飛び込んだ最初の1冊目のタイトルは『たのしい算数ドリル 掛け算編』。
「・・・オレがやるのか?」
「違います。カペルちゃんにです」
何を馬鹿なと言わんばかりの視線でネリンはレイオットの手からその薄い小冊子を取り上げ、どうやら科目ごとに分類しているらしい床の上の山に重ねる。
「カペル?」
「だって学校行ってないんでしょう? だったら基礎学級くらいの学力は身につけないと」
なんのために? などと言ってもムダなのはわかっていた。
CSAである以上、一般人と同じ学校にいけないのはわかりきったことだし、施設に入っても学力をつけたところで未来が無いのは同じ。基本的人権すら制限されたCSAがまともな職につけるわけもない。算数だの国語だの・・・テストにパスするためだけの学習にいったいなんの意味があるのか。
「いろんなものに興味を持って、いろんなことを覚えて、感じて、考えてって、そういうのあの年頃がいちばん大事な時期なんです。特に算数とか理系の分野は基礎が分かってるかどうかで全然理解度が違いますから」
レイオットの無言の抗議を予想していたようにネリンが「生物学」と書かれた高等学校用と思しき教科書をまたひとつ床に並べる。どうやら手当たり次第持ち込んできたらしい。
「教科書って基礎を学ぶ上ではやっぱりいちばん役に立つんです。この間カペルちゃんが花の種がほしいっていうから買ってきてあげたら、朝顔の種とひまわりの種、いっしょの場所に植えようとしてたから」
「そうなのか」
そもそもカペルが園芸に精を出していることすら気づいていなかったレイオットはちょっとショックを覚える。
レイオット自身が庭仕事に何の興味も持っていないので、そのあたりはシェリング夫人に任せきりだった。あの世話好きの夫人はなんだかんだといろんなことをカペルに教えているが、考えてみればそれはもっぱら「夫人の興味のあること」ないし「詳しいこと」に限られている。水やってりゃ育つよと豪快に笑うあの主婦がカペルに植物の群生の違いなど教えているところはどう考えても想像がつかなかった。
レイオットは基礎級どころかちょっとした理科大卒くらいの学力はある。それは魔法士をやる上で物理現象だの魔法学だのの知識が必須になるからでもっぱら実践で覚えたとはいえ、それだけでは通用しない分野を補うためにずいぶん独学もした。いややらされた。緊急のときに必要になる医学知識、自身でモールドの損壊を判断するための魔法工学知識。賢者石の伝導率ひとつとってもその時の自然環境にずいぶん左右されるのだと、いざというときのために知ることのできることは全て知っておけ と―――
――そうか。あの人がそう言ったんだった。
そしてその人が死んだ後、忘れた。忘れて、それでも教わった必要な全ては彼の中に定着し、息をするように自然に繰り返されている。今でも基礎訓練は怠らないし、ジャックが開発するあれやこれやの実験に興味を覚えたり、それを戦いに取り入れたり、その結果を彼に教えて改良させたり。それらは全て――生き残るためにできるだけのことをしろと。彼から教わったこと。
『幸福の不在ってやつだな。
気がついた時にはお先真っ暗の、落とし穴だ』
「迂闊だったな・・・」
忘れていたなんて。いつ死んでもいいと思っていた自分がごく自然に生きるために動いている。そういう風になるように育てられたのだと、そう、そんなこともわかっていなかった。
「スタインバーグさん?」
いきなり黙り込んだレイオットを、ネリンが不思議そうに見ている。
床に座り込んだ位置からうつむいたレイオットの顔は見づらい角度で、表情を覗き込むために身を乗り出していいものかどうか判断がつきかねた。
「いや。なんでもない」
まったく、この魔法監督官はびっくり箱みたいに次々取り出してみせてくれる。そして多分自分がそうやって彼とカペルをひっかきまわしていることには全く無自覚らしい。「息をするように自然に」そういうことをする。
「あんたは誰から教わったんだろうな」
「え? 私ですか? それはやっぱり学校とか友達とか家族とか本とか・・・」
「あ、いやそういうことじゃなくな・・・まあいいか」
「?」
「カペルもその調子で頼む」
「はあ」
カペルはこの本の山をどんな表情で受け取るだろう。ジャックにもらったタイプライターで日記をつけはじめた彼女に、レイオットは辞書を買ってやったが、そういえば彼女がどんな文章を書くのか彼は知らない。
これまで彼女の世界に存在していたのは、自分と彼だけで、それも決して健全なありようではなかった。歳よりも大人びて聡明な彼女は、憎悪ゆえの復讐に拘泥するほど単純ではなく、いわれなき中傷や嫌悪に傷つくほど心弱くもなく、かといってそれらすべて振り切れるほど無頓着でもない。レイオットにはどうしてやることもできない。彼女から新しい世界の可能性を奪ったのは彼だからだ。だから彼女が望むなら殺されてやっても別にいいと――そんなことすら考えていた。それでその後彼女がどう生きるのかなんて考えたこともなかった。
彼の救いようのなさはいつしか彼女の精神も蝕んで、沈殿した憎悪や悲嘆とともに生きるための希望や喜びも熱のない世界が奪っていった。自身が作った心の闇に閉じられた世界。そうやっていつか終わる時だけを待っていたはずなのに。
なのにここ最近の変化はどうしたことだ。
「明けない夜はない、か」
カペルを呼ぶために階段を上がりながらレイオットは独りごちる。
単純な日々の繰り返しが、回り回ってまた繰り返される。彼が教えてくれたことを、彼女に教える人がいる。
自分の殻に閉じこもっていても、強引に殻を叩き割ってくれる手はどこからでも現れる。扉を叩く手はふいに訪れる。
『自分だけで生きていけるなんて思ってたら甘いんだよ』
かつて彼は笑って言った。
『お前、自分で何でもできるから、自分だけで生きていけるなんて思うなよ。そう思ってるとな、誰かかならず重い荷物背負わせてやろうって人間が現れるんだ。そういうやつに限って離れがたくなったりするんだよ不思議とな』
そういって彼の頭を撫でたその手。
『まあいいか。お前も自分の番になったら分かるだろ』
彼に与えられ、彼が全てで、彼の役に立ちたくて、彼と自分だけで閉じられていた世界。
その殻は無惨に割れて今はもうない。そして今。
――『お前の番になったら分かるだろ』
なんでいまさら。今になって。思い出すのか。
懐かしさと切なさとほんの少しの後悔と。振り切るように見上げた時、階段の向こうの窓は真昼の光に溢れていた。
まばゆさに、目をしかめる。