「……なんでコイツなの?」
封印され眠っている魔性の姿を確認したとき、思いっきりイヤそーな顔で睨んでやったが、目の前の男はしたり顔で笑って見せた。
「使い勝手がよくて気が利いて腕のたつヤツってご指名だったろ?」
「単に上層部の連中に利用されずにすむだけの後ろ盾が欲しい、って言ったのよあたしは」
「つまり、後ろでごそごそ画策する連中の裏をかけるヤツ、ってことだろ?」
単刀直入すぎて身も蓋もない言い方に、さしものマンスラム様も絶句している。
ラス。あんた何だってよりにもよってこんなヤツ選んだのよ。
「腕のほうは保証するぜ? なんたってこの俺様のアストロツインってヤツだ」
だからヤなんだけど。
心の中でつぶやいたが、たぶんお見通しなんだろう。
「適任だろう?」
そう言って笑ったその男の顔はどう贔屓目に見ても底意地の悪さで溢れかえらんばかりだったから。
「右っ! 回り込んだわよっ!! そっち結界張ってる!?」
とある森の中での一幕である。
対して力が強いわけでもない、けれど「普通」の人間にとっては十分驚異となる妖鬼の捕縛に、サティンは今日も駆けずり回っていた。働かざる者食うべからずはどこに属しようと同じ鉄則だ。
「……きゃんきゃん喚かんでもやることはきっちりやってる」
心底うんざりしたような声が返ってきて、けれどそれに反論する余裕は今のサティンにはない。
矢尻を構えれば、一瞬で現れる矢羽と弓。
「くたばんなさいよぅっ!」
そして放たれた矢は空を切り裂いて狙い違わず、目当ての妖鬼を捕らえた……。
「あーーあ。意外と手こずっちゃったわ……」
ぼやきながら、両手の汚れを、近くの清流で落とし、サティンは背後を振り返った。
「あんたももうちょっと協力的になってくれてもいいんじゃない? 鎖縛」
何度目かの仕事のうちにようやく抵抗なく呼べるようになった名前に答えて現れた男の姿は、漆黒の髪、漆黒の瞳、漆黒の衣装。上級の魔性の「妖貴」の印、黒を纏った彼は、現在の彼女の護り手である。
「俺の仕事はお前を護ることであって、お前の仕事を肩代わりすることじゃない」
「肩代わりしてなんて頼んでないでしょ。協力しろ、と言ってるのよあたしは」
「……いいのか?」
サティンの非難に、その妖貴はその美貌に相応しいだけの酷薄な薄笑いを浮かべた。
「……どういう意味?」
「手加減ってやつは下手なんだよ、俺は」
「……?」
徹底的に説明の足りない鎖縛の言葉に、サティンは眉をしかめる。
「俺が力を使えばあんな雑魚、瞬時に消しとんじまうぜ。あんたの仕事ってのはそれでいいのか?」
確かに。
捕縛師の仕事は魔性を「封じる」ことであって、消し去ることではない。というより人間より遙かに寿命も力も強い魔性を、人間の身で「滅する」ことなどほとんど不可能なのだ。規格外の友人達のおかげでサティンは己の物差しが常人と異なりつつあるのを自覚し、反省した。
「……そうね。わかったわ。どうもありがとう」
自分の尺度があまりに常人−−この場合それは浮城の人間達−−特に浮城の上層部たちとかけ離れてしまうことは望ましくない。
守ると決めた大事な義妹(便宜上そう呼んでおく)のために、彼女は浮城内である程度の自由と独立性は維持せねばならず、かつまた、彼らの裏の真意を読みとり、場合によっては駆け引きや謀の類もやってのけねばならなかった。
今までそれを一手に引き受けてくれていたマンスラムはもう老齢で、しかも病身とあって浮城の中央からは敬されても遠ざけられつつある。
セスランやリーヴシュランはやろうと思えば即座に浮城を見限ることができるだろう。後ろ盾になる権威筋には事欠かない二人だ。
そう考えると最も利用されやすく、弱みを握られやすいのが自分であることにサティンは義妹が浮城から追われる身となった時すぐに気づいていた。
彼女の実家はごくごく普通の中流家庭で、家族は両親を筆頭に弟妹が3人いる。たまたま捕縛の才能があったサティンが浮城に入ったのは七つの時だが、彼らとともに暮らした記憶は色あせぬまま残っているし、手紙のやりとりも、帰省の機会も頻繁にとはいわぬでもそれ相応にあるのだ。
義妹にとって彼女が弱みになるように、サティンにとっても彼らは弱みである。そこまでなりふり構わぬ真似を浮城がするとは思えないが−−それでも最悪の事態には備えて置かなくてはならなかった。
(人間は−−たぶん自分が思っている以上に、卑怯になれる)
保身のために全てを正当化できる。
それが悪いかと言われれば、人間として生きる以上、決してそうではないのだ。たぶん。
「その通りさ」
彼女の心を読みとって、かつて彼女の護り手を殺した男が耳元で嘲るように笑った。
至近の距離、ふいをつかれて反射的に振り返った時には、鎖縛は既に数メートルの距離を置いて彼女と対峙していた。
「お前がいくらあがいても、小娘一人、あいつらにとっちゃ手駒扱いさ。そして自分たちもやはりそうだってことは考えてもみないものさ」
心底おかしそうに笑う男は人とは隔たる寿命と力を持つ妖貴そのものだ。彼女の知るもう一人の魔性が、義妹には決して見せない顔を思い出す。浮城にいる間、おちゃらけてばかりいた深紅の男の裏にあるものに、サティンはとっくに気づいていた。気づかないのは人を疑うことをしない義妹だけだったろう。
「そういう笑い方、止めなさいよ。ますます似てくるわよ−−闇主に」
その名が出た瞬間、目の前で笑う男の表情が一変した。
殺意、などという一言で言い表せるようなものではない。ただ瞳の中で暗い、紅い、激しい、劫火とも嵐とも付かぬものが荒れ狂う。視線だけで全てを破壊し尽くしそうな顔だった。実際、手纏きの封印がなければすぐにもそうされていただろう。
「俺の助力が欲しいなら、二度とアイツの名は出すな」
激発寸前の押し殺した声に、さしものサティンも二の句が継げない。
言い終わる前に後悔はしていたのだがこれほど顕著な反応が返ってくるとは思ってなかった。
「……悪かったわ」
その一言で許されるとは思ってなかったが、意外にも相手は視線を逸らすだけにとどめた。だが頑なな表情が、よりいっそうサティンの心を暗くする。
お前には解らない、解るはずがないのだと−−その横顔は告げていた。
ようやく帰還した旅から数日後。
サティンはまたしても仕事の依頼を受けた。
普通、ひとつの仕事を終えた捕縛師は一週間以上の休息をとるのが慣例だ。
それを考えるとここのところの過密スケジュールについて、サティンはまたしても裏の事情、というやつに思いを巡らせてしまう。
「どういうつもりかしら……」
こんな時相談相手になるセスランもまた、捕縛の任で遠方に出張中だった。
人手が足りないのだ、と言われればそうかとも思う。
通常、仕事は数人がかりで行う。捕縛師二人と、破妖剣士一人、というのが一般的なチーム構成で、たった一人で仕事を行う捕縛師、というのはかなりの実力者あるいは経験を積んだものに限られている。魔を相手にできる才覚を持つ人間は世界にそう多くはなく、それでいて成果は上げなくては成らず、従って、チーム編成というリスクの少ないやり方を取るのは当然ともいえた。
それがここ最近、幼鬼、小鬼問わず、魔物がらみの事件が多く、まだ経験も浅い者が一人で仕事にあたるケースが多くなってきている。帰還せぬ者も当然増え、こちらの数は減る一方で仕事は次々と入ってきている。十分な休息もなく仕事が舞い込んでくるのは当然といえば当然なのかもしれないが……。
「単に場当たり的になってるだけ? それとも……」
『両方だろうよ』
サティンの物思いを面倒くさそうな声が中断する。
声は耳にではなく、心に直接響いた。そしてこの声は決して浮城にいる他の人間−−たとえば上層部子飼いの盗み聞き専門の魔性たちにも−−聞こえない。こんな芸当ができるのも妖貴クラスの力の証と言える。
『両方ってどういう意味?』
解っているが聞き返すのは確証を得たかったからである。
『お前クラスの捕縛師なら一人で仕事させても大丈夫だ。しかもその上外に出していればどこかであいつらと落ち合わないとも限らない、そこを狙って捕獲できれば−−とまあそんな感じだろう。一通りツラは拝んだがあんまり頭よさそうでもなかったしな。それにあいつらが気にしてるのはお前よりむしろあの男の捕縛師の方だ……半妖の』
鎖縛が上層部の人間を指して「アッタマ悪そう」と評するのを聞いて、かつて彼を自分の護り手にあてがった男が、彼を評した言葉が、彼女の脳裏をかすめた。
軽く首を振って、目前の問題に関心を戻す。
『あの男って……セスランのこと?』
『そうそう』
与えられた個室に入ると、くつくつと笑う気配と共に、その護り手は姿を現した。
均整のとれた漆黒の長身が、扉に背を持たせて肘を組んだ姿勢で笑っている。
「あいつらにとっちゃお前の護り手についた時点で俺は自分たちの手の内にあると思ってる。「ついで」だと思われてりゃ動きも取りやすいだろ。俺を魅縛したのはあの小娘だってことになってるしな。ヤツが−−繊屍……とかいう先だっての魔物の件と刷り替えたんだ。一旦魅縛されれば妖貴も妖鬼も同じ、いざとなれば封じる手だてはいくらでもある、と−−人間の思考てのは自分の手に負えない事態は想像しないようにできてるもんさ」
ヤツ、というのはもちろん闇主のことだ。その件はサティンも初耳で、それで上層部が彼の存在にとやかく言ってこない理由がわかった。
「ついで……ねぇ」
ずいぶん簡単に相手の裏を読みとってくれるものだ。
「おまけに情報源になるもんまでつけてくれてるんだしな」
ちらり、と扉の向こうを探るような気配を見せて、鎖縛は思わせぶりな視線を投げてよこした。
「情報源?」
「お前人の話聞いてなかったのか。ここ最近つけられてる監視用の幼鬼どものことだよ」
「監視っ!?」
慌てて探ってもそんな気配は微塵も感じられなかった。
「安心しろ。誤魔化してある」
こともなげに相手は言って肩をすくめた。
「誤魔化すって……」
魅縛とは違うがな、と鎖縛は前置いて、人差し指で小さな弧を描く動作をしてみせた。
「幼鬼どもには一種の暗示をかけてある。第一に俺の姿は見ていない、第二にお前の言動で都合の悪いものは他の誰かの言動とすりかえる。そして俺と話したことも忘れている」
まあ、この暗示を破るのはここの魅縛師を総動員しても無理だろうよ−−と彼はおもしろくもなさそうに答えた。
ここにきてサティンは、相手の中に明らかに以前とは「違う」要素を見いだして、密やかな−−喜びに似た感情を抱いていた。多少なりとも影で気を遣ってくれていたわけだ。
「いつ……から気づいてたの? あたしに監視がついてるって…」
「初めて会ったときからだ」
「じゃあ、あの人も知ってたのね?」
あの人、が誰なのかは名前を出さずとも相手の表情で伝わったと察した。
「知らんわけがないだろう? 知っててそういう手合いを放っておいて事態がのっぴきならない方向に向かうのを楽しむのがアイツの遊び方なんだ。誰かに恩を−−というより貸しを作れるとなったら大喜びで事態を膠着させにかかるだろうよ」
何食わぬ顔で借りを取り立てるために。
そしてサティンの脳裏に浮かぶ、もうひとつの帰納法的思考回路。
サティンが困った事態になる→ラスが心を痛める→闇主が解決してやる→ラスに感謝される。
「…………」
「わかっただろう?」
うんざりした声がサティンの心中を察したかのように沈黙に応じた。
「ええ。ええ、よくわかったわ」
いったい誰がいちばんタチが悪いのか。
ため息とともにサティンは寝台に自らの躯を投げ出した。
「あんの男。とことんラス以外は遊び道具に使う気ね……」
「まさか。例外なんかあるものか」
お前、まだ判ってないな……とは目の前に立った闇色の男の言である。
「つまり、ラスも遊び道具?」
あの二人の絆がそんなものであるとは思えない……思いたくない。
「愛情だって遊び道具さ。あの男には」
苦い表情で言ったのを見ておや、と思う。
もしかしたら触れられたくない思い出を触発してしまったのかもしれない。
「どんなに真剣でもな。あいつ自身、自分が生きてること自体が遊びなんだと思ってる。そう考えりゃ他人の命くらいなんだ」
「やけに詳しく語るわね」
「詳しくならざるを得んだろう? 運命共同体ってヤツなんだからな。俺達は」
星回りが同じに生まれた。姿カタチ、力も似ていた。それだけのことで。
「……そんなに思いこめるもの?」
「だから、お前はわかってないと言ってるんだよ」
「何よそれ」
どこまでも理解を拒否する言葉にサティンは本気の怒りを覚えた。
上体を起こして、目の前で光を遮る男をにらみつける。
「何も言わないで、でも解ってくれないって、拗ねるのは止めてよ。あんた一体あたしにどうして欲しいわけ?」
「いつ俺が拗ねた!?」
「今よ! 今もそうよ! あたしはあんたを信頼したいのに、あんたはそうじゃないんでしょう!? いっつもいっっっつも解るわけないって顔して! ええそうよ。あたしは人間だから解らないわよ、魔性の事情なんて! もしあたしと同じ星周りで生まれた人間がいたって、へえ偶然ねで終わりよ、人間の場合はね。でも魔性はそうじゃないんでしょう? あんたの拘りよう見てるだけで判る。だからあたしはどうしてって聞いてんのよ!」
一気に言ってしまって、ぜいぜいと息をつくサティンを見下ろす幼貴の表情は毒気を抜かれたように、けれど硬質のものになってしまっていた。
「俺も……そう思おうとしたさ。単なる偶然だ、とな。俺には……俺の名、俺の存在、俺の力があるんだと……だが、それでも……思い知らされるんだよ、ことあるごとにな。アイツと、アイツの周囲の奴らに。出来の悪い模造品を見るような目に晒されて生きてきた。自分を通り越してアイツを見ている奴らばかり相手にしてきた。誰も俺の名を呼ばなかった。誰も……」
その声に、その表情に、サティンは、思い出していた。ラエスリール。彼女がここに来たばかりの頃のことを。望んで、でも手が届かずに、諦めたように落とされる腕、折り畳まれる指。
「俺の名は……それすら何かの呪詛のような響きだ。縛りつけられて逃れられない呪詛だ。その先にはアイツがいる……」
目を凝らすように何もない空を見つめる。その先に嗤っている男の姿がいるかのように。
そしてはっ、と転じられる視線がサティンを射抜く。
「満足か?……俺は…言いたくない……言いたくなかったんだ、ちくしょうっ!!」
激しい悲鳴のような糾弾が、サティンを絶句させた。
声をかけようとした瞬間、彼の姿はかき消えていた。
「鎖縛っ!!」
伸ばした手は届かない。あの時、ラエスリールに届かなかったように。
その日から鎖縛は呼んでも現れなくなった。必要な時、力の存在は感じても姿を見せない。
どっぷりと自己嫌悪の海につかりながらも、仕事は受けた。
というより断る気力もなかったという方が正しい。
目前の仕事に没頭することでもやもやを晴らしたい気もあったし、長い道程の中で事態を好転させるきっかけがあるかもしれない、と考えたせいもある。
以前ラエスリールの心を開いたきっかけも、夏の山荘旅行だった。
なんにせよ何がしかけられるかわからないしがらみだらけの浮城から離れられるだけで心休まるだろうとか思ったりしたし。
・・・判断が甘かったと言わざるを得ない。
「まいったわね……」
どうもこう、ついてない、というか。
「油断があった……ということかしら」
捕らわれた檻の中で、サティンはぼやく。
妖鬼に狙われている村では熱烈な歓待を受けた。誰もが早くこの事態をなんとかしてほしい、と願っているのがありありで……だから油断した。
「人間は……多分自分が思っている以上に卑怯になれる……」
以前自分で自分に言い聞かせたことを思い出す。今さらになって思い出すこと自体が油断していた証拠と言えるだろう。
浮城への高価な依頼料と、目前の妖鬼の危機。彼らが選んだのは、やってきた捕縛師を妖鬼への生贄にする、という一見一石二鳥な−−というより場当たり的な−−対処法だったのだ。
「何回も続けりゃすぐバレるだろうってことに気づいてないのかしらねぇ……」
そして思う。
人間は、自分が思っている以上に、卑怯にも愚かにもなれる、ということに。
『たいていの人間はね、悪人なんじゃなくてただどうしようもなく愚かなんだということですよ』
かつて郷里の祖母が言った言葉を思い出す。
「ひょっとして……あたしもそう?」
言ってはいけないと判っていて、言ってしまうこと。
早く対処しなければいけないと判っていて、逃げ道を探してしまうこと。
檻は今まさに、目的の妖鬼のもとに運ばれてきている。
もうじき−−月が中空に現れればその妖鬼も姿を現す。
サティンは今、何も身につけていない。荷物は全て村人に取られてしまった。
着ている服も、いつ着替えさせられたのか、粗末な白麻の着物だけ。
ガウンに近い前合わせの着物は後ろ手に縛られた姿勢だと、胸元からはだけそうで対処に困るものだった。
「これはつまりアレよねぇ……楽しんでから殺して食べる……っていうことよねぇ」
でなければわざわざ着替えさせられた理由がない。
いい加減独り言ばかり言っているのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
この事態を打開する方法は簡単だ。なのに自分はそれを実行できずにいる。
『たいていの人間はね、悪人なんじゃなくてただどうしようもなく愚かなんだということですよ』
「バカなのは……あたし……?」
そう呟いたとき、気配が一変した。
「人間にしては……なかなかに美しいな。顔も魂も……こんな辺境にしては極上品だ」
くぐもった声が人間とは違う声帯から出たものであることを知らせていた。
檻の向こうで笑う、身の丈2mはありそうな巨体。人の姿に化け切れぬ醜悪な下級妖鬼の言葉に、サティンは眉をひそめた。
「なんか……前にも同じ台詞を聞いたような気がするわ」
つぶやきは相手にとどかなかったようで、檻が一瞬で破壊される。
「俺は人間の女の味は判らない……でもあの方はこれがいい、というんだ……」
意味不明。もとより妖鬼には複雑な思考回路などない。あるのはただ馬鹿の一つ覚えみたいな拘りだけだ。
「俺はあの方のようになるんだ……強くてキレイなあの方のように……だからあの方のするようにするんだ……」
この際あの方が誰なのかは判らないし、知る必要もない。問題なのは自分の胸元に向かってのばされる妖鬼の腕、自分の足をつかんで引き倒す、妖鬼の指だ。
「はっなしなさいよ……っ!!」
自由になる足で思い切り向こう脛を蹴りつけても相手はびくともしない。
「人間にしては気が強い女だな……そういうのを従わせるのが楽しい、とあの方も言っていた……」
にやりと笑った、と形容すればいいのだろうか。サティンには口元が歪められたようにしか見えなかったが。
のしかかる重みに顔をしかめる。だがこの期に及んでもまだ身の危険を感じてはいなかった。
武器もなく、自由も利かない。逃げることもできない。以前ならもっと焦っていたはずだと思う。
(感覚がズレてきている……? 普通の人間と……? ううん、そうじゃない……)
「自分が絶対安全だと思っているの? サティン……」
そうじゃない。用心に用心を重ね、慎重に慎重を期して、頭と体、能力と経験値の全てを賭けて……そうやってやってきた。事態を侮ったのは自分。油断したのも自分だ。自分のせい……だから。
(だから、自分でなんとかしなくちゃならない……ラスならそう考えるのね)
でもそれなら、人間は一人で生きていけるの?
「信頼する相手がいるから、失敗できるってこともある……」
だから闇主はラスをあんな風に優しく呼ぶのだ。『この、馬鹿』と。
「馬鹿だけど……ラスはいいのよ、それで」
妖鬼の爪がサティンの肌をひっかく。愛撫でもしているつもりなのか、ただ爪が広げる傷が痛むだけだ。犬に触られているのと変わらない。
以前、この妖鬼と同じ台詞を吐いた相手に触れられたときは……もっと違っていたような気もする。
(鎖縛……。)
あたしは弱くなった?
(以前ならもっと自分でなんとかしよう、とか考えたりもしたのよ。架因は妖鬼だけど可愛くて妹みたいで、だからあたしの方がしっかりしなくちゃと思ってた)
「ここで貴方の名前を呼んだら……あたしは弱くなったことになっちゃうのかしら……」
でも今呼びたいのは貴方の名前だけで。
他の誰の名前でもなくて。
誰でもいいから助けて欲しいわけじゃないの。
妖鬼の手がサティンの足を割る。初めて嫌悪感を抱いた。
(しっかりしなさい、サティン。以前の感覚を取り戻すのよ。
今できることをするの。いつもそうしてきたように)
今。今必要なのは……ほんのちょっと踏み出す勇気だけだ。
「鎖縛……」
声がかすれた。ダメだ。こんなんじゃ届かない。
「助けてよ、助けてよ、鎖縛っ!!!! あんたじゃなきゃダメなんだってばーーー!!!!」
勇気さえ締め直せば、しくじるはずがない。手を伸ばすのなんて馬鹿みたいに簡単じゃなくて?
答えは怒り狂ったような雷撃とともに、降ってくる。
一瞬の目映さ。おそるおそる目を開けたとき、彼女にのしかかっていた妖鬼は影も形も消えていた。
周囲一体の樹木も黒こげで、サティンだけが無事だった。
そして、目の前に立つ黒い影のような男も。
「鎖縛……」
「全く……なんだって今まで……」
前髪をくしゃり、と上げて苦々しく言い捨てる。
「こんなになるまで、なんだって呼ばないんだ……!!」
「うん……ごめんね……」
起きあがれずに、しかし上体を一生懸命持ち上げて、サティンは鎖縛を見つめる。
やっぱり来てくれた。
その様子に鎖縛は苦笑して、彼女の背後に跪き、体を起こす。
ふと、はだけた胸元の傷に彼の視線が集中する。妖鬼の長い爪でひっかかれたそれはまだ生々しい血が流れていた。
背後から抱きしめるように腕を回し、そっと、触れるか触れないか程度に手のひらをかざす。
治療のためだとわかっていても、恥ずかしい体勢であった。
ゆっくりと大きな手のひらが上下し傷をいやしていく。耳元に彼の息づかいを感じた。
覗き込むように肩口から視線を感じ、その次の瞬間には濡れた唇が。
「あ……っ……ちょ、ちょっとなに……?」
「黙ってろ」
「で、でも……」
「いいから……」
そして塞がれる。反論を許さぬ口づけだった。
そういえばこれで二度目だ。
忘れていたけれど。架因を殺してくれたときにもこの男は……。
赤面ものの台詞を思い出す。用がすんでも可愛がってやってもいい、なんぞとほざいていなかったか?
唇が離れたとき、視線があった。
至近の距離にある黒い瞳に、サティンはどきりとする。
背後から肩を抱かれたまま、しかもまだ両手の戒めは解けないまま。
(ちょ、ちょっとまさか……)
さっきの妖鬼に襲われていた時よりも危険を感じるのはナゼだ。
その表情からはなにも読めない。だから一層不安になる。
「さ、鎖縛……?」
名を呼んだとき、呪縛が解けたように、彼が動いた。
乱暴に胸元を合わせ、両手の戒めを解いてサティンを立たせる。
「もう、大丈夫だな?」
「え、ええ」
「そうか。なら」
言って視線を村の方に転じる。
「あっちの詰腹も切らせんとな」
物騒な台詞は、静かな表情とは裏腹に内心の怒りを伝えていた。
もとよりサティンに否やはない。
「サティン。今回の依頼料、予定額より多いようですが?」
捕縛師長の問いに、サティンはしれっとして答えた。
「そうですか? まあずいぶん歓迎されていましたから、お礼に色をつけてくれたんじゃないでしょうか?」
「それにしては……多いのですが」
困惑した声が、裏で「何かしたのか」と告げている。それはそうだろう。予定額の3倍近くは巻き上げたのだから。
「随分、感謝されましたから」
随分、のところを強調したのだが、伝わったかどうか。
無事に帰ってきたサティンの怒りの表情と、村のすぐ近くにできた直径5kmほどのクレーター。平身低頭する村人達が勝手に積み上げた依頼料を遠慮なく受け取って、その後一番近くの街で1週間ほど豪遊した。勝手に休暇を作ったことに関しては責められるべきかもしれないが、監視の使い魔たちの目を誤魔化すくらいならやってやる、という鎖縛の言葉にサティンは潔く乗ることにしたのだ。
おかげでいい親睦旅行になった。
人間に化けた鎖縛とカジノで豪勢に賭け、一人勝ちして高笑いしたことなどいい思い出だ。
ラエスリールやリーヴシュランとはどうしても健全思考の遊びになってしまう。その点、鎖縛は妖貴だけあって実に話の通りがいい。
呆れながらも面白がっていい目が出るよう仕組んでくれたのだから。
「……わかりました。ご苦労様。次の依頼はまだないようですから、ゆっくり休養なさい」
ため息をついて老齢の捕縛師長が退出をうながした。
「大活躍だったそうですねぇ、サティン」
意気揚々と引き上げるサティンに、ブロンズの髪の捕縛師が声をかけてきた。
「あら、セスラン。貴方も帰ってきていたの?」
「ええまあ。貴方とほぼ同時期に。聞きましたよ。妖鬼を封じるどころか消滅させたとか」
「あら。それは私じゃありませんわ。忠誠心あふれる護り手のおかげですのよ」
ほほほと笑うサティンの脳裏には、以前なら盛大に聞こえてきたはずの舌打ちも悪態も感じられなかった。
「随分仲良くなったんですねぇ」
仲良く、というあたりになにやら多少の皮肉が潜んでいたようが気もするが、無視する。
「まあ手柄が増えるのはよいことですよ。いろいろと」
何年生きてきているのか判らない男は一見何の他意もなさそうな発言を謎めいた笑いとともに残してサティンがたった今出てきた部屋に入っていった。
「?」
その台詞に自身が悟る以上に読みとれない真意があるような気がしてひっかかったが、日常に取り紛れれば、すぐ忘れてしまった。以前彼女の護り手がいった通り、人間の思考は自分の手に負えない事態は想像しないようにできているのだ。実に都合がいいといえる。
一方、彼女の護り手である『人間外』は、それほど楽観的にできていなかった。
真夜中過ぎ。書斎に籠もって報告書を書き上げたセスランの背後に現れる影。
「……何かご用ですか?」
闇が滞ったような気配を察し、慎重に名前を呼ばぬよう振り返る。
この浮城にいる護り手で、単独でセスランに近づくものなど今やたった一人しか考えられない。
「確認しておきたいことがあってな」
以前、彼に単独で近づけた唯一の「自称」護り手そっくりの黒い妖貴は、昼間サティンのそばにいるときとは比べ者にならぬ酷薄さをその雰囲気に纏っていた。妖貴としての、彼の本性。
「確認、ですか」
てっきり咎め立てでもされるのかと思っていたセスランは無駄と知りつつ、椅子をすすめる仕草をして、自身も書き物机から応接用のテーブルに移った。
「何をでしょう?」
「俺相手に駆け引きはやめておけ。そんな真似をしても今のところお前に益はないぞ?」
くつり、と笑う男はセスラン以上に駆け引き慣れたものを感じさせた。
おや、と思う。
この男については、どちらかといえばあの妖主の影で虐げられた拗ねくれもの、という印象しか持っていなかったのだが。
「いやな想像するな、お前は」
なるほど、腐っても妖貴というわけだ。こちらの真意を読みとるくらいはお手の物なのだろう。
「……まあいい。いずれにせよ話は手っ取り早くすませたいしな」
「彼女の身が心配ですか?」
半ば否定されることを予想しての問いだった。
もの柔らかに挑発する話し方は彼の駆け引きのテクニックのひとつだ。
「駆け引きは無用だ、と言わなかったか? 俺は」
彼の中にある確かな力の存在を感じてセスランは本題に入ることにした。手っ取り早く話をすませたいのは彼ばかりではない。
「それで何をお聞きになりたいと?」
それに対する鎖縛の問いは、さしものセスランも絶句するものだった。
「いつ殺るつもりだ?」
「………………………………は?」
聞き違いだったか、とセスランは思わず間の抜けた返事を返してしまった。
まじまじと相手を見返すが、鎖縛の表情といい態度といいどこまでも真面目に聞いてきているようだった。
「…………ええと、誰を、でしょう?」
「あの捕縛師長だ。タイドリクとかいう」
ああ、とセスランは納得した。なるほど自分の予想からそれほど離れた話題ではなかったようだ。
それにしてもいきなり暗殺を示唆されるとは思わなかった。
「何か行き過ぎがあるようですね……別に彼をどうこうしようとは思っていませんよ、私は」
「だがアレは長生きするぞ。俺の見たところあと20年は生きる」
「別に生きていても永遠にその座にあるわけではありませんでしょう。浮城の各長には在任期間というものは明確に存在していませんが、生前に交替することだって珍しくはありません。誓って言いますがそこまではっきりと計画しているわけではないんですよ、私は」
「あわよくば、という程度でしかないわけか?」
「いずれは、という言い方の方が正しいでしょうね」
「いずれ、ね……」
薄笑いを浮かべながら前髪を描き上げる仕草をして、相手はまだ真意を疑っているような視線を投げてくる。
「なるほど、そういう言い方がいいならそうしよう。いずれ、アイツを捕縛師長の座につける。それはいいとしてだ」
今まで口に出したことはなかったが、彼と鎖縛との間では、このことは既定の未来となっていた。いつから、と言われてもセスランにははっきりとは判らない。この妖貴が現れてからではないか、と思えばなんとなくそんな気がしないでもない。ひょっとして唆されたのは自分の方だったのか?
「何故お前が自身でその座につかないのか、はっきり聞いてもいいか?」
これについても既に答えは見透かされているのだろう……言葉通り確認しておきたいだけで。確認。いったい何を確認しにきたのだ?この妖貴は。
「それは無理ですよ。なにしろ私は半妖です。そういった素性の人間がこの浮城にいることは表沙汰にはできませんから」
一介の捕縛師であればまだ誤魔化しも効く。だが捕縛師長という地位がつけば各国の情報リストに名が載らぬ方がおかしい。半妖というのはそれだけで浮城にとっては致命的な汚点になり得る。
「確かに、な。お前は影にいた方がいいだろうよ。暗躍するには公の地位ってものは邪魔になるからな。いずれはアイツを捕縛師長にして、あわよくばあの小娘を魅縛師長にする。元城長のマンスラムとやらが生きているうちにそれができれば、浮城のトップの半数は抑えられて、お前も制限なく動けるようになる。どうせ追われてるアイツらは魔性の身だ。準備時間はいやになるほどあるんだしな」
「そういう貴方も私とご同類のようにお見受けしますが? なるほど貴方は『あの方々』に関わることでさえなければ随分と物が見える方なのですね」
「生意気な口を叩くのは許してやろうよ……衣於留に免じてな」
言われるのはいやだろうが、こういう表情をするとかなり似ている。今の闇主ではなく、かつての柘榴の妖主に。
「聞きたかったのはそれだけだ。お前がそのつもりなら、力を貸してやってもいいと思ったんだが、『急いては事をし損じる』だっけな。人間にしちゃいい知恵だ」
そのつもり、の真意を考えるといささかなりとぞっとするものを覚えないでもない。現れたと同様に瞬時に消える彼に手を振って、セスランはため息をついた。
暗黙のうちに選んだ共犯者は想像以上に協力的で、頼もしく………それを補って余りあるほど物騒な相手だったようだ。
「あそこまで見抜かれているとは思わなかったんですがねぇ……」
『あら何言ってるの。あの子は猜疑心の塊みたいな子よ? 人の裏を読むことにかけちゃ柘榴の妖主以上なんだから』
セスランの言葉に衣於留−−時々気まぐれに彼の護り手をやってくれている、鎖縛の知人−−が声をかけてきた。いつからか知らないが、見守ってくれていたらしい。
「なるほど、貴方がいてくれたから大目に見てくれてたんですね、彼は」
『まあね。でもいざとなったらそんなこと気にしないわよ、あの子。確かに生きてる年数は私の方が多いけど、ほんとのこといえば力の差は較べものにはならないし』
「サティンも大変ですね……」
かの女性は自身を中心にして回り始めている策謀にはそうたやすく気づかないだろう……あの護り手がいる以上は。
自身もその輪を回す一人であることはちゃっかり棚の上にあげておいて、セスランは快適な安眠の中に落ちていった。