時には4月にも雪が降る。
ただ1日現れて消える、儚い夢。
それはただ・・・

 

 西地区にくるのは初めてだった。

***

 ケースSAの発生は当然ながら魔法士が働く場所で起こることが多い。その中でももっとも魔族化しやすいのは工業系の魔法士なので、どちらかといえば市の東側の工場集積地帯がもっとも発生の多い個所だ。ネリンの担当地区も東地区になっている。西地区は本来別の魔法管理官の担当なのだが、春先から立て続けに起こる事件のせいで、エリアの担当がどうのと言っていられない自体が発生していた。魔法士の不足は深刻で、だからといってすぐ補充できるようなものでもない。予算よりも供給側の問題で。そんなわけでネリンに限らず今の魔法管理局全体が自転車操業状態だった。
 今回発生した西地区の事件そのものはそれほど特筆に価するものはなく、甚大な物的被害と微小の人的被害を出しながらも短時間でカタはついた。レイオット・スタインバーグのお決まりのパターンだ。

「少しは周りに被害が及ばないようにできないんですかまったくもう・・・」
「死人を出さなかっただけでも感謝してほしいと思うんだが」
 モールドを脱いで普通の姿に戻ったレイオットが、いくつかの書類にサインをしながら答えた。
「ただでさえ忙しいのにこれでまた余計な書類を書かなきゃならないんだと思うと・・うぅ・・・」
「まだあるのか? じゃ今俺がサインしてるのは?」
 彼の左側には厚さ約5mm程度の書類がまだ残っている。
「あ、これは消防局と警察に出す書類です。無許可の車両、また走らせたでしょう。あれの分と・・・」
 あれと、これとそれとと今までサインしたものをめくりながら言うネリンに、うんざりした顔でレイオットはまたひとつ乱暴にペンを走らせた。
「役所仕事ってのはどうしてこんなに面倒が多いかね」
「必要なものだから必要な数だけ存在してるんです。人間は一人で生きていないんですからね」
 下目使いににらんでくるネリンの新見解にレイオットは一瞬虚をつかれた。
「なるほど」
 必要なものだからか。改めてサインしようとした書類に視線を落とす。
 手元の書類のタイトルには「露天の開設、道路工事、道路占用届出書」とあった。
「・・・露天?」
「公道で火器を使用する場合の消防系の手配をするときにそういう名目だと都合がいいんです」
「いいけど・・・魔法士って露天業?」
「無資格の貴方を魔法士と扱うことはできませんから。資格申請さえしていただければ魔法士で通りますよ」
「知らないうちに露天商にされていたのか」
「ここに出す書類に関して言えばケースSAとまったく無関係で通そうと思えばできますから」
 事実はどうあれ書類の上だけのことであれば、魔族の魔の字もださなければ済む。
 けれどそれをしてしまうとケースSA自体の発生がなかったことになり、そうなると保険の申請やら、来年度の予算取りやらに響くため、全く無関係で処理するわけにもいかずそのあたりの調整のしどころがネリンとブライアンを泣かせていた。ことにブライアンは事務系仕事は苦手なためもっぱらネリンが頭をひねることになる。そのおかげでネリンは警察や消防関係の書類にもすっかり詳しくなってしまっていた。
「まだあと魔法管理局の分も帰ってから作ってお届けにあがりますから。宜しくお願いします・・・ってことであと15分で書き上げてくださいね。受付の窓口、あと20分でしまっちゃいますから」
「ブライアンに渡しとけばいいんじゃないのか」
「そう思ったんですけど、別の事件でお忙しいそうで。今日も現場にいらしてなかったでしょう」
「そうだっけ?」
「はい。いらっしゃいませんでした」
 回答を求められてたカペルテータが素直にうなづいた。
 ケースSAの現場では戦うことに集中しているためあまり周囲を見ていない。
 自然そのあたりの記憶は傍らの少女が補うことになる。
「でも今すぐサインを書き上げればお渡しできます」
「え?」
 カペルの視線を追って振り返ったネリンは、初老の婦人と歩いてくるブライアンを見つけた。
 
「よう警部。元気?」
 気安げに声をかけるレイオットに対し、モデラート警部はことさらに不機嫌だった。
「また何を壊したんだお前は」
「善意の協力を申し出た露天商に対してそういう言い方はないと思うが」
「露天商? ヤクザの同類項から少し格上げされたな。めでたいことだ」
「斡旋者が凄腕でね」
 レイオットがちらりとネリンに視線をやる。男二人の間ではさまれていた彼女にようやくブライアンが気がついて声を掛ける。
「ああ、シモンズ監督官。いつもいつもご苦労だな」
「警部もお忙しそうですね。事件ですか?」
「ああ、そういえばここで会うというのは珍しいな」
「そうですね。普段は本庁の方に伺うことが多いですし」
 ちなみにここは現場から最も近い警察署である。
 魔法管理局まで帰るとなると同じ市内でも1時間ちかくかかるし、レイオットの帰宅路がその途中だしで、たちまちの書類だけここで揃えることにしたのだ。
 そのうえ本来本庁詰めであるブライアンがここにいるのも十分異例なことでそう考えると運が良かったと考えるべきなのか逆なのか。内心首をかしげていると回答は意外なところから返ってきた。
「それにしても・・・運が悪いな」
「は?」
 ブライアンが渋い顔でネリンを見ている。
「何がですか?」
「いや君が悪いわけではないのだが」
 どうも歯切れが悪い。
「俺が悪いのかな?」
 茶化したふうにレイオットが言うのを横目でにらむと、ネリンにもう一度視線を転じる。
「悪いことは言わない。シモンズ監督官。当面西区には近寄らないことだ。もしどうしてもこなければならないときはせめて変装してくることを薦める」
「はぁ?」
 変装? 何で?
 ブライアンが事情を説明しようとしたその瞬間、彼女はすごい力で肩をつかまれていた。
 
「エレン!?」
 
 ブライアンとともにいた初老の婦人が取り乱したようにネリンにしがみついている。
「え? あの?」
「エレン・・・あなた生きて・・・・!」
 その後は声にならず、ただ押し殺したような嗚咽だけが伏せられた顔から漏れる。
「奥さん」
 予想通りだ、と言わんばかりの口調でモデラート警部はその婦人の肩を抱き、さりげなくネリンから引き離した。
「彼女は違います。お嬢さんではありません」
「え?」
 言われて婦人は顔を上げる。
 かなり憔悴した様子であることは一目で知れた。涙の跡がくっきりと頬に残り、結い上げた髪が幾筋か頬に落ちている。
「ああ……」
 彼女はしばらくネリンを食い入るように見つめていたが、ようやく納得したようなため息を漏らした。
「そうね。よく見れば……違うわ。顔立ちも少し……でも髪の色も印象もなんてよく似て……」
 またしても目尻に涙がたまり、後は嗚咽に消えた。
 ここまでくればなんとなく事情が飲み込めてきた。おそらく彼女の娘は亡くなったか行方不明になったかで、その娘にネリンが似ているのだろう。
 そう思ってみれば初老の育ちの良さそうな婦人は、ネリン自身の母にも印象が似ている。
 他人事のように思えなかったが、だからといって返す言葉もない。
 やがて彼女は現れた別の婦人警官に抱きかかえられるようにして帰っていった。
 
「警部……」
「やれやれ。すまなかったなシモンズ監督官」
「いえいいんです。気にしてません。それよりもさっき言ってたことはどういう意味ですか?」
「ん?」
「しばらくこちらの地区には来ないようにって……」
「ああそれはな……」
 一瞬言いよどんで、彼は宙を仰いだ。
「立ち話も何だ。どこかで座って話そう」
 ということはこみいった話なのだろう。
 歩き出したブライアンの後に従うべきか、ネリンは一瞬とまどい、レイオットを見た。
「まあ一応聞くだけ聞いてみたらどうだ?」
 内心、俺に判断しろと言われてもなと思いつつ、レイオットもついていった。
 そうしなければならない理由は実のところなかったのだが。
 
「ここのところ西地区で起こっている連続殺人事件のことは知っているか?」
「え?」
 食堂でコーヒーを受取ながらネリンは首をかしげた。
「知らんのか」
 結構有名な話だぞと警部が呆れたように言う。
「そういや新聞で読んだような」
 レイオットには心当たりがあったようだ。
「すみません。ここのところ忙しくてろくに読んでるヒマなくって……」
 ネリンが言い訳するようにうつむく。
 実際ここのところ新聞も雑誌も目を通していない。世間の流行話にはどんどん疎くなっていっている。
「若い女ばかりを狙ったやつだよな。確か先週で4人?」
「5人だ」
 むっつりとブライアンが訂正した。
「それは……物騒ですね」
 曖昧に答えるネリンに、ブライアンが懐から取り出したのは3枚の写真だった。
 机の上に置かれたそれに目を通し、レイオットがうなずく。
「似てるな」
 誰に、とは言われなくてもわかった。毎日鏡で覗いている顔だ。
 やや赤みがかった栗色の長い髪。青く大きめの瞳。やや童顔な印象の顔立ち。
「あ、さっきのエレンってもしかして……」
「関係者の一人だ。もっともその娘は被害者ではないんだが」
「というと?」
「さっきの婦人の娘は1年前に亡くなっている」
 そこで間があった。遠回しな言い方をしているのはこちらを気遣ってのことだとネリンは気がついた。あまり私に聞かせたくない話なのだ。それで助け船を出すことにした。
「詳しく聞かせてくださいませんか?」
 ネリンの言葉にようやくブライアンが口を開いた。
 
 先ほどの初老の婦人の娘はエレン・ラインハートという。莫大なと言わぬまでもそれなりの資産家の娘だったが1年ほど前に死亡した。
「事故かなにかで……?」
 若すぎる死の原因を尋ねたネリンに、ブライアンはことさらに渋い顔を見せる。
「あまり若い娘に言いたくない言葉ではあるんだが……」
「気にしません」
 悲惨なケースなら仕事柄慣れている。
「集団暴行殺人だ」
 微妙に置き換えられた言葉だったが、被害者が若い娘と言うことであれば事情ははっきりしている。
「なるほどね」
 レイオットが疲れたようなため息をもらす隣で、やはりネリンが身を固くする。
「それでこの事件とその娘とどんな関係が?」
「事件そのものは犯人も前科があったこともあって首都に送られ極刑判決が出た。全員服役中だが、いずれカタがつく。遺族にはなんのなぐさめにもならんだろうが」
「それで終わらなかったからこんな話してるんだろ」
「その娘には婚約者がいた。事件の後精神に異常をきたして病院に入り、3ヶ月前に退院した」
 ようやく話の流れが現実に戻ってきたようだ。
「今回の連続殺人の事件が起こり始めたのはその2週間後からだ」
「その男が犯人だと?」
「おそらくはな」
 確証はない、と言い置いてブライアンが改めてネリンを見る。
「これまでは西地区だけの事件だったし、容疑者は無職で、移動距離も短い。東地区にいるあんたが目をつけられる可能性は少ないだろうと思っとったが……今日一日ケースSAにあたっていたのなら目に触れた可能性もあるだろう」
「西地区に出入りしなけりゃいいだけの話だろ」
「それはそうだが……」
「気をつけます」
 ブライアンの心配そうな視線にネリンは多少無理に笑顔を作った。
「そうしてくれ。実のところあんたはかなり似ている。実の母親が見間違えるくらいだし、私も最初彼女の写真を見た時にはあまり似てるんで親戚かと思ったくらいだ」
「こちらの方に親戚はいませんから……他人のそら似だと思います」
「ともかく気をつけてくれ。やつの写真を見せておく。身辺に現れるようなことがあったらすぐに連絡をくれ」
 そう言って手渡された写真には、薄い金の髪をした優しげな風貌の若い男が映っていた。
 そして寄り添うように肩先で笑っている少女の顔は、確かにネリンに似ていた。幸せそうな恋人たち。
 かわいそうにな、と痛ましい気持ちがわいたが、傍らのネリンはさらにショックだったようだ。ずっと写真に見入る表情には深い影が落ちていた。
 
「なんだか……少しもそんな感じじゃないですね……」
 そんな、というのは殺人事件の犯人かもしれない、という意味でのことだろう。
「そうだな。だが……人間というのは変わるからな」
 ブライアンも同意した。だがネリンはあいかわらず写真から目を離さない。
「この人……名前はなんて言うんですか」
 聞いてどうする、とレイオットは思ったが、ブライアンは写真をしまいつつ答えた。
「エリオット。エリオット・カスパーだ」


 最初に見つけたのがカペルだったことはその後しばらく忘れていた。
 後になってみればなるほどと思えることではあった。

***

「じゃ、これ。こないだの分の提出書類」
「はい確かに。おつかれさまでした」
 警察署でサインしたのとは別の、魔法管理局から送られてきた諸々の書類一式を、ネリンの元に届けたのは1週間後のことだった。
 ついでにジャックの所に預けたモールドも引き取って帰る予定だ。
 長居する気はなかったが、買い出しに予想以上の時間がかかったため魔法管理局に着いたのは終業ぎりぎりの時刻だった。
 だが役所仕事は定時帰り--などという世間様一般の偏見をうち破るがごとく、建物内は未だ活気に--というより殺気に満ちている。
「……あいかわらず大変そうだな」
 原因の一端を担っている自覚が多少はあるレイオットは、目の下にくまを作ったネリンに気の毒そうな視線を向けた。
「そう思うんなら資格申請書にサインください……」
 対するネリンは本当に疲れ果てているのか、普段の強気がない。
 それ以上追求してこないのでレイオットも返答は避けた。
 
「じゃ、ここで。大変だろうがほどほどにな」
 入り口の外まで律儀に送ってきたネリンに、年寄りじみた挨拶をして立ち去ろうとした時。
 それまで一言も発することなくレイオットに付き従っていたカペルがふいにネリンの首筋に抱きついた。
「!?」
 驚いてバランスを崩すネリン。
「おい?! カペル?」
 常ならぬ同居人の行動に、レイオットが驚いて引きはがそうとすると、カペルがネリンの頭を押さえ込むようにして抑揚のない声を上げた。
「顔、あげちゃだめです」
 そして背後にちらりと視線をやった。その動作で何事かを察したレイオットも視線をそちらに転じる。何かネリンに見せたくないものがあるらしい。
 そしてレイオットも気がついた。
 道路を挟んだ向かい側。
 春先の柔らかい夕日に照らされた並木のそのすぐ脇に。
 
 その男は、まるでまだ冬の最中にいるように、黒いコートを羽織り、左手で襟元を押さえて立っていた。
 
「なんなんです?」
 ずり落ちた眼鏡を整えながら、ようやくネリンが顔を起こす。
「見るな」
 レイオットが間に入って視界をふさぐのは一瞬遅れた。
 その男は彼女に微笑みかけていた。
 写真の中の笑顔と同じ、春のような笑顔だった。

***

 モデラート警部に知らせるべきだ、とレイオット・スタインバーグに警告されても、ネリンは奇妙なほど落ち着いていた。というより知らせることをしぶっていた。
『そんなに悪い人には見えないですよ』
『殺人事件の容疑者だってこと忘れてないか』
『見間違いかもしれないし』
『俺もカペルも見た』
『まだ犯人だって決まったわけでも……』
『だからブライアンがそれを調べるんだろ』
 わかりました、とネリンが答えたのは一瞬黙り込んだ後である。
 なぜそれほどまでに通報を避けたがるのか。普段のネリンらしくない態度にレイオットは多少の疑念を抱きながらも、ネリンが警察に行くまで付き添った。らしくないといえば自分はなぜこんなお節介をしているのだろうと、内心首をかしげつつ。

「とうとう現れたか」

 ブライアンの態度はやはりなと言わんばかりだった。
「西区では全く足取りが掴めないのでひょっとしたらと思っていたが・・・」
「それにしては対応がえらく早いな」
 レイオットの皮肉にブライアンは珍しく決まり悪げな顔をした。
「やっぱり泳がせてたな」
 通報するやいなや、1個小隊でやってきたのだ。魔族退治じゃあるまいしそれほど敏速に収集がかけられるはずもない。
「無断で囮にしたわけだ。まずいんじゃないかね、警察の対応としては」
「わかっとる」
 苦虫をまとめて噛みつぶしたような顔でブライアンは応じた。
「だが護衛をつけるというのを断ったのは彼女の方だぞ」
 それは初耳だったので、レイオットは軽く目を見張った。
「内々に、彼女の上司を通じて申し入れをしていたのだ。本来全くの管轄違いだが、カート・ラベルとはお互い長いつきあいだ。護衛という名目で監視役を置く予定だった」
「それを断った?」
「見つけたら必ず通報する。専門家ではないにせよ一応戦闘訓練も受けているからとな」
「……」
 だが、ネリンは通報を渋っていた。
 まして逃げ去った男を追うでもなく。
 なんなんだ。何が気になる?  常の彼女らしくない態度。おそらく何人もの人間を殺していながら屈託なく笑いかけたあの男。それと……他にも何かある。彼だけが感知している何か。
 黙り込んだレイオットにブライアンが不審そうな表情を向けた。
「どうした?」
「いやなにも」
 首を振って空転する思考を止める。
 そのために違うことを口にした。
「それで? あの男の居場所はわかったのか?」
「具体的な足取りはまだ掴めとらん。ただ教会通りの辺りで見かけたという情報がある」
「ああ、あそこらはそういうのに打ってつけだからな」
 教会通りとはトリスタン市で最も大きいホルスト教会神殿があった一帯を指す。だがその名が示す教会は50年前のあの事変で失われた。その後、教会の再建は別の場所で行われたため、今ではもっとも歪んだ形で復興した一帯となっている。有り体に言えば娼婦と三流ギャングの巣。犯罪者が身を隠すにはうってつけといえる。
「どうやって生きてんだろうな」
「ん?」
「やけにきれいな身なりだった。あの男」
「そうか」
「犯罪者ってなあんなに余裕のあるもんかね?」
「半ば狂っとるんだろうな。そうでなければ動機の説明がつかん」
 自分の愛した女とよく似た女を殺す。
 忘れたいからか? 愛しているからか? レイオットにはわからない。
「わかりたいとも思わんがね……」
 こだわるってな、これだから怖い。
 偽悪的にそう思ったが、その一方でなぜかその男に同情している自分がいることに気づく。
 理不尽に奪われたもの、取り返しのつかない過去。やり直したい、やり直せたらと思うことは--わかる。
 わからないのはやり直せない過去を抱いて異なる迷宮に入り込んだ男の行動だった。
「なんで殺すんだ?」
「それはやつに聞くしかないだろうな」
 とっ捕まえて聞くしかない。だがやっぱり聞いても分からない気もした。
 そして顔を上げたその向こうに。
 
 白いワンピースの彼女がいた。

***

「シモンズ監督官」
 普段はやや横で分けて流している前髪を、うすく残して後ろでサイドの髪といっしょに髪留めで止める。あとは自然に後ろに延ばし、残した前髪はまっすぐ降ろしている。
 ただ髪型を変えただけで、今の彼女はかなり違った印象になっている。そう。あの男といっしょに移っていた写真の彼女のように。
「似てるな」
 ブライアンの一言にネリンは静かに笑う。
 その笑い方すら普段の彼女と違う、しとやかでおとなしめの印象だった。
「髪型を少し変えただけで、そっくりになりましたね」
 ネリンを手伝ったとおぼしき婦人警官が、かの女性の写真と彼女を見比べて、ブライアンの言葉に同意した。
「そうですか?」
 ネリンもその写真に視線を落とす。
 被疑者の男に肩を抱かれて笑っている白い花のような女性。
「でも彼女は……」
 つぶやかれた一言が気になったのはレイオットだけだったろうか。
 らしくもない彼女の態度に微妙な苛立ちを覚え、苛立つ自分にはさらに腹を立てていた。
 被疑者発見の通報が入ったのは、その直後である。

      「でも彼女は」
 
      「私よりもずっと、幸せそうです」

 なにもない部屋だった。人が住んでいた気配はなにも。
 けれど確かに彼はここにいたのだ。
 机の上に置かれた写真立て。幸福そうに微笑む彼と彼女。それだけがこの部屋に存在する人の営みの証だった。
 壊れかけた椅子がひとつ。床の上に倒れている。
 あちこち痛んだその椅子に黒い染みを見つけた。血に汚れた痕だと気づいても、ネリンはまだ落ち着いていた。
 なぜこんなに怖くないんだろう。
 それは目の前で。
 この人がこんなにも幸福そうに笑っているから。
 
「エレン」
 それは自分の名前ではないと、理性では分かっている。それなのにそう呼ばれて違和感のない自分が不思議だった。
「エリオット」
 初めて呼ぶその名。声はかすれて、やはり自分の声ではないようだ。
 奇妙に空気が停滞していた。無彩色の部屋の中で微笑みかける目の前の人の姿だけが鮮やかに視界を占有している。
「やっぱり生きていたんだね」
 目の前にいるのに遠くから聞こえてくるような声。過去の彼女が未来の彼の声を聞いている。
 もはや現実には存在しない彼女がここにいる。
「エリオット」
 腕を伸ばしてきた彼に抱きしめられても怖くはなかった。
 優しい抱擁は彼女を傷つけまいとする気遣いに満ちている。
 肩先に顔を埋めて、切なく名を繰り返す。
 エレン。
 耳にする度、やりきれない切なさに胸がつまった。
 彼がこんなに想っている彼女はもうこの現実の世界にはいない。
 今彼の声を聞いているのは1年前に殺された彼女なのだ。続いているのに決して戻れない世界の向こうにいる。触れ合うことはもうできない。
 かわいそうに。
 私を抱きしめていても、何にもならない。
 あなたは間違っているのよ。あなたが見なくてはならない人は過去にしかいないの。未来にも現実にもいない。
 だからあなたは生きていけない。だからこんなになってしまった。
 かわいそうに。
「エリオット」
 説得の常套文句は山ほど頭に入っていた。それなりのレクチャーは受けていた。おとり捜査をするために専門の係官から再訓練を受けてもいた。なのに相応しい言葉はどれひとつとして出てこなかった。
 変わりに出たのは自分でも予期していなかった言葉。けれどごく自然に口をついて出た言葉。
 
「----逃げるのよ」
 

 背中に回した指先に力を入れると、彼が身を起こす。不思議そうにネリンを見ていた。
 やはり気づいているの? 私が彼女ではないことに。
 それでも怖くはなかった。
「逃げるの。遠くまで。ここにいてはだめ」
 扉の外で警官隊やモデラート警部や、レイオット・スタインバーグが包囲していることも、今の彼女は忘れていた。
 暗い室内ですべての時が閉ざされる。逃げ場所などどこにもないと知っている。世界の果てまで逃げても彼が救われる場所はどこにもない。
「エレン」
「お願い。逃げて」
 とまどうように彼女を見つめる彼に、ネリンはとうとう言ってはならない言葉を口に乗せた。
「わたしも、いっしょに行くから」
 その言葉に。
 彼は優しく微笑んだ。とても幸福そうだった。
 
 警官隊が踏み込んできたのは、そのすぐ後のことだった。
 停滞していた時間が一気に流れ込み、男は人間の膂力とは思えぬ素早さでネリンの脇をすぎ、窓を破る。
「だめ……!」
 とっさに窓に近寄った時、激しい悲鳴が夜空に響き渡った。

「魔、魔族……!!」
 
 裏通りとはいえ、繁華街近くだ。幾人かの人間がその異様な姿を見つけて悲鳴を上げる。
 階段を駆け下りてきた警官たちは絶句して、たちすくんだ。
「魔族……やつは魔法士ではないはずだぞ!?」
 ブライアンが驚愕する脇で、レイオットがウルフハウンドをしまいつつ答えた。
「密造モールド」
 短い一言だったがそれで十分に意味は通じた。ごく最近トリスタン市を恐怖に陥れた事件を思いだしブライアンはうなる。
「市場に流れていたやつがまだあったのか……」
「素人の殺人事件にしては手際がよすぎると思っていたが……」
 同行していた老年の刑事も驚愕のあまり身動きできずにいる。
「多分な。直接殺すのには魔法を使わずに証拠の隠蔽とかアリバイ工作とかに使ってたんだろ。死因に疑わしい要素がなければ残留呪素の測定なんかしないだろうし」
 黒いコートに包まれた男の体が奇妙に歪んでいくのが映る。ぶつぶつと皮の切れる音をたて、コートの下に隠されていた異様な拘束具の金具が弾け飛んでいく。
 自分たちとは対照的に落ち着き払ったレイオットに、ブライアンが鋭い視線を返す。
「貴様、いつから気づいていた?」
「はっきり確信したのはたった今。疑いがあったのは最初から」
「最初?」
「カペルが最初にあいつの気配に気づいた時だ……あいつには魔族とか、魔術を使った時の痕跡とかそういうのが気配で分かる。生きた魔力計みたいなもん……」
 そこで言葉を切った。
 階段をゆっくり降りてきた人影に気づいたからだ。
 白いワンピースと白いショール。髪型を変え、普段の魔法管理官の制服を着ていないネリンはそれだけで別人のように映る。緊迫した空気の中に白い姿を浮かび上がらせた彼女は、周囲の視線を受けてもひるむことなく顔を上げ、静かに告げた。
「モデラート警部」
 声は落ち着いていたが、有無を言わさぬ力に満ちていた。
「ケースSA発生です。魔法管理局監督官として事件の権限を引き継ぎます。確認を」
「あ、ああ。了解した」
「ありがとうございます。レイオット・スタインバーグ魔法士」
 軽くブライアンに頭を下げ、すぐにレイオットに向き直る。
「現場に最も近い魔法士として、出動を要請します。当該SAの処理を最優先でお願いします」
 何かを言いたげなレイオットの視線を跳ね返し、ネリンはもう一度振り切るように告げた。
「お願いします」

 

***

 事前に首から下の第二次拘束術式図版は描いてきていたため、ものの2分で装着は済んだ。
 対峙した時、男の姿は奇跡的にまだ飛び降りた場所にとどまっていた。
 というよりはなから動く気がないのか、狭い路地の真ん中に立ちつくし、崩れた体を曝して荒い息を吐いている。
 魔族特有の破壊衝動も見られない。
 魔族化はいったん起こってしまえばかなりの短時間で成長するはずなのだが、これほど静かな魔族というのをレイオットは初めて見た。
 しゅうう、というひときわ荒い息が吐き出され、ようやく男の--というよりかつて男だったものの--腕があがる。ねじくれた樹木のように伸びて、レイオットの腕に巻き付こうとする。それを避けてマグナ・ブラストを一発たたき込む。
 わずかによろけた魔族は体勢を崩しながらも同じ魔術をしかけてきた。
「顕!」
 ディフェレイド発動。
 すかさず次の攻撃魔法を詠唱。
 相手の体が吹き飛び、袋小路になった壁に激突する。
 さらにもう一発。
 まだ完全な消滅にはいたらないが、確かな手応えを感じた。

 袋小路の外に包囲網を展開し、離れた場所で二人の戦いを見守っていたブライアンは、事態を見極めてつぶやいた。
「カタはつきそうだな。完全にヤツのペースだ」
「ええ。それほど成長しているようにも見えませんし」
 ケースSAの発生現場は常ならばかなりの混乱に満ちているはずだ。
 魔族化したモノは1体でもしとめ損なえば即、人類の全滅につながりかねない。魔族となった人間は専門の魔法士と同等ないしそれ以上の力を持つに至る。生まれたての子供であったとしても、魔族として成長していけばあっという間に手に負えない存在になるのだ。それに比べれば目の前の魔族はごくおとなしい部類だった。
「すまなかったな」
「え?」
「あんなものを下に着込んでいたとは……気づかなかったとはいえヤツを追い込んで魔族化させた原因はこちらにある」
 きまじめなブライアンの謝罪に、ネリンは微笑みすら浮かべて答えた。
「気にしないでください……もともと、もうだめだったんです」
「?」
「腕を広げてきた時に見えました……あの人、拘束端子、全部使い切ってたんです」
「……」
「これで最後だったんです。多分あの人も分かっていたんだと思います。これ以上逃げる気なんかなかったんです」

 かつてきれいな形で存在していた幸福を理不尽に奪われた彼は、失われていく彼女の熱を姿を、その身にとどめたくて魔法に頼ったのだ。
 取り戻すことができないのならせめて。
 
 けれど、あの拘束具はお伽話の魔法の杖とは違う。
 
 狂った彼に手渡されたモールドは彼の想いに応えられず、拘束端子が弾け飛ぶ度に、縛り付けておきたかった思い出も確かに存在していた愛情も、少しずつ歪められ、奪われていく。
 心は蝕まれ、純粋な想いは濁り、彼女の姿も見失った。
 似ている女たちに彼女を重ね、裏切りを受け入れられず、現実を否定した。
 そう。今の魔術はお伽話の魔法とは違う。
 ネリンは彼女にはなれないし、彼は彼女を取り戻すことなどできない。
 4月に雪を降らせることはできても、それを永遠に留めておくことはできないのだ。
 
「多分、彼もわかっていたはずです」
 
 奇跡的に体に残る拘束具の切れ端が緩慢な動きに合わせて揺れ、魔力を発するたびにその奥で青い光が弾ける。
 レイオットは軽い動きで交わしていく。おそらく彼にとっては手軽な部類の相手なのだ。
 だがなぜか最後の始末にてまどっているのは、おそらくネリンが今感じている感情と近いものを彼も感じているからだろう。
 普段なら恐怖の代名詞であるはずの異形の姿が、なぜだか哀れげで。
 トウガイマゾクノショリヲサイユウセン。
 その言葉は、魔法管理官の常套文句だ。理性の自分が下した決定はひどく機械的で非人間的だった。いっぽうの感情過多の自分はやめさせてと喚き続けている。
 魔族化した時点で人間は人間ではなくなる。けれど一瞬前までそれは人として機能していたものなのだ。
 誰かと愛し合い、誰かと想い出を共有してきた。それがすべて失われてしまう。
 結局--私はわかっていなかった。父を失っても、同じケースに何度も遭遇しても。わかっていなかった。
 あの人は確かに人間だった。
 過去にしか生きられなくても、人間だった。
 ありえない未来を望み、狂うほどにあがき続ける、人間だったのだ。
 なんの手出しもできない戦いからひとときも目を離さず、ネリンは信じることの難しさを噛みしめていた。
 未来。忘却。可能性。希望。そういった諸々の、過去を断ち切る救いについて。
 レイオットのモールドの胸部からまた拘束端子が一つ弾ける。そろそろ決着がつこうとしていた。

 降り出した雨が一瞬雪に変わったのは、彼の最後の魔力の残存流出によってだった。
 お伽話のようだとネリンは思い、でも無意味だとも思った。
 還らない想い出のように無意味だと残酷に思った。
 
 拘束具を脱いで、第二次拘束術式図版を落としたレイオットに、ネリンは深々と頭を下げる。
「おつかれさまでした」
「……ああ」
 短い言葉に含まれる様々な微妙な感情。
 もちろんレイオットは頼まれた仕事をしただけだ。
 社会的にも道義的にも彼に恥じるべきことは何もない。
 だが気まずい一瞬の沈黙が彼の後ろめたさを語っていた。
 また、書類にサインをいただきに伺います。
 視線を合わせぬままつぶやくように告げて、ネリンは踵を返す。
 去っていく彼女の後ろ姿はいっそ毅然としていたが、雪まじりの風に揺れるショールは喪葬のしめやかさに満ちていた。


 約束通り、ネリンは2日後に書類持参でやってきた。
 てきぱきと事務的に話を進め、レイオットのサインを確認し、書類を揃える。
 まだ食事には早い時刻だったので、珈琲を出す。
 気軽な会話を楽しむ雰囲気ではなかったが、沈黙がなぜか気詰まりではなかった。
 むしろ黙っている方が何かを共有している気分になれた。それでも一つだけ聞いておきたいことがあってレイオットは2杯目の珈琲を半分空けたところで、ようやく口を開いた。
 
「なあ」
「はい?」
「あれは本気だったのか?」
 あれ、が何を指すのかは言わなくてもわかったはずだ。事件の後、あんなことを言い出すタイプには見えなかったがとブライアンも首をひねっていた。
「本気で、あいつと逃げるつもりだったのか?」
 黙っているネリンに、もう一度問いかける。
 単なる好奇心からというには、答えを待つ時間が少し耐え難かった。
「……いいえ」
 ようやっと彼女の口からでた答えは短く、単なる否定で、それ以上はなかった。
 当然ながら彼は納得できない。
「じゃあなぜあんなことを?」
「さあ……」
 困ったように曖昧に笑う。
「多分、魔が差したんでしょう」
「魔が、ね」
 揶揄するような口調に、ネリンは手にしたカップをテーブルに降ろす。
「誰にだって流されてしまうことはあります」
「それがあのときだったと?」
「やけにからむんですね」
 二人のやりとりをカペルは黙って聞いている。だが興味がないわけではない証拠に、視線はずっとネリンに注がれていた。
「どうにもらしくないと思ってね」
 らしくないといえば自分もそうだった。こんなに深入りする必要はなかった。関わらずにいようと思えばいくらでも関わらずにいられたはずだった。
「そうですね」
 ネリンはあっさり認める。
 
「『愛とは4月に降る雪のようなものだ。思いがけなく、しかし確かに予感を持っていた存在--時季外れで、ひどく身に凍みる』……おおげさな言い方になりますけど、結局そういうものだったんだと思います。気の迷いで片付けてもいい。魔が差したと言えばそれだけのことで。そういうことって囮捜査の上では珍しくないそうですし」
 囮捜査において、犯人に肩入れしたあげくに逃亡を補助する捜査官は、確かに少なくない。帝国の諜報機関では魔法士によってそのための心理障壁を施されるケースもあるくらいだ。
 ただ、それを他人事のように語るネリンの様子自体が、レイオットの気に障る。やはり普通ではない、と思う。
「でも」
 レイオットの思考を遮るようにネリンがカップをまた手に取った。
「もう、大丈夫です」
 結局の所それは愛ではなく、同情ですらなく、ただの気の迷いだったのだから。
 念を押すように、もう一度言った。
「大丈夫です」
 心の奥で何かが喚きたててももう耳を貸さない。
 還らない想い出とおなじで、なんの意味も持たない。
 
「……あの人、笑ってました?」
「は?」
「最後に死ぬ時……何か言ってました?」
 聞くなと心の中で誰かがわめいた。意味などない。
「いやなにも」
 呼応するようにレイオットは即答した。
「顔なんて見分けつかなくなってたし」
 半分嘘だ。だが顔を見ている余裕などなかったのは事実だった。戦っている時、相手の表情など彼は気にしていない。見ても忘れている。覚えていても意味はない。--そう、思うことにしている。
「そうですか……」
「名前を呼んでいました」
 突然、今まで黙っていたカペルが会話に割り込んだ。
 レイオットとネリンの視線が集中する。
 言うなとレイオットは目線で制したが、カペルはかまわず続けた。
「エレンと。ずっと」
 エレン。耳元に蘇る優しい声。
「そう……」
「魔族化すると人間だったときいちばん拘っていたもののに執着するんだ。珍しいことじゃないだろ」
 考え込むネリンの思考をそらそうと、レイオットはわざと投げやりな言い方をした。
「そうですね。きっと」
 
 魔族。人間の、成れの果て。どうしてそうなってしまうのか。30年前の事変以降、様々な学者が様々な説を論じ合ったが結局の所結論は出ていない。
 はっきりしていることは魔法は人間の体には毒であるということ。魔法を使うたび、それは体ではなく心を蝕んでいくのだということ。
 歪んでしまった彼の目に自分はどう映っていたのだろう。幸せだった頃の彼女と、自分は似ていたのだろうか。殺された女たちと、似ていたのだろうか。
「私、そんなに似てました?」
「似てないよ」
 脈絡なく話題は転換したが、レイオットはすぐに反応した。
 同じことを考えていたのかもしれない。
 ふと顔を上げると、レイオットの視線と行き当たる。
 心配そうな、けれどどこか突き放したような目。
 好きにしろよと彼なら言う。逃げたければ逃げろ。忘れたければ忘れろ。忘れられないなら--その痛みは抱いていくしかない。
「忘れます」
 きっぱりと言って、手にしたカップの液体に視線を落とした。
 
 4月に降った雪は、街の汚泥に混じり、濁って下水へと果てる。
 きれいなものが汚れていく。惜しいとは思うがそれだけだ。
 汚れてもきれいなものがあると人は信じたがるけれど。それは奇跡のような確率でしか存在しない。
 あの人は多分それが許せなかったのだ。
 いっぺんの曇りもなく幸福だったあの世界が、いわれなく奪われ地に堕ちたことが。
 それを可哀想だと思うことは--何かが違う気がしている。
 
「多分・・・あの人、きれいすぎたんでしょうね」
「何? 顔?」
 金髪の優しげな風貌を思い出し、レイオットは突然何をと問い返した。
「いえ、顔とか外見とかじゃなくて。考え方とか。人生観とか」
「きれい・・・ねぇ」
 ネリンの意図がわからず、レイオットは不要領得顔で首をひねる。
 狂恋の果てに無差別殺人に走った男は彼にはもっとも疎遠な類の人種だ。
「ええ。多分」
 ネリンはやりきれないように笑いながら、
「おキレイすぎたんです。きっと」
 そう、言った。

 きれいなものでなくては愛せないのなら、汚れてしまった悲しみや憎しみは愛してもらえないのなら、それは人間を愛せないのと同じことだ。
 人はきれいなものだけでできていない。
 きれいなものだけ見て、きれいな感情にだけ育まれて、そうやって生きていけたらそれはそれは幸せなことだけれど。
 あなたやあなたの恋人のように生きていられたらそれは幸せなことだっただろうけれど。
 事実彼女は幸せそうだったけれど。
 たとえそうであっても、それは多分、人間が得ることのできる幸せとは違う。
 それは天国にしか存在しない幸せだ。きれいで儚くてもろい。
 生まれ落ちた瞬間から、人は否応なくその身に呪詛を纏う。
 母なる体、その羊水の中で受ける呪い。血と体液、苦痛と呪詛にまみれて生を受け、それを迎え入れるのは残酷なまでに美しく、野蛮な世界。
 
 
( さようなら。  )
 
 

 小さなカップの中で、大地と汚泥の色に似た苦い液体が渦を巻くのを見つめて、ネリンはようやく自分の弱さを許そうと思った。
 
 私はそれでもここで生きるから。
 立ち向かうことも諦めることもせずに貴方は脱兎のように逃げ出した。
 こんな世界などいらないと、否定して壊すだけならなんて簡単だろう。
 
 さようなら。
 あなたの恋はきれいだけれど、あなたの幸福は夢のように美しかったけれど。
 そんな夢のような世界に憧れもするけれど。
 私はやっぱりここで生きるから。
 だから、自分の中でありえなかった幸福な夢に逃げ込んでいた少女の声には、もう耳を貸さない。
 

 閉じた瞼に珈琲のぬくもりを感じながら、4月に降った雪の想い出を葬り去ろうと決めていた。
 夏が来るまでには。

 


●あとがきと参考文献について

 

 この話には元ネタといもいうべき話が存在します。
 正直に言いますと、問題提起としての今回の事件そのものと、第4話終盤~5話目の部分はネリンの台詞各所などその話をほとんどそのまま借りました。
 …ので、読んだ方の中には「あーこの話……」と思われた方がいらっしゃったのではないかと思います。
 そのため公開自体も当初かなり渋っていました。
 本来ニ次小説というジャンル自体がいわば日陰のものですが、この話については特に、もし読んで不快だ、という意見が出たら、その次点ですぐ削除しようと思っています。
 それでもいい、という方、黙って見逃してやってください…。宜しくお願いします。

<<元ネタ>>
 ●波津彬子/著  「夜は来て愛を語り」 
    朝日ソノラマ社 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス  ISBN: 4257902078 ; (1993/11)

 
<<その他引用>> 

 P8. line 38 ネリンの台詞
 ●上遠野浩平/著 「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター」
    株式会社メディアワークス