L’Empire des Lumieres
モールド・エンジニアは工学系技術者の中でも特に高度な専門知識を必要とする職種である。
魔法産業は現在でもアルマデウス帝国の主要産業分野で、世界規模で見てもそのあたりの法人・研究機関はこの国に集中している。
その中でも、モールドやスタッフといった魔法士に欠かせない「機械」の設計やメンテナンスを請け負うモールド・エンジニアは単なる技術者というにとどまらず、最先端の魔法学研究者でもあった。
従って当然―――その工賃は高価だし、収入も高額だ。
一般的なモールド・エンジニアの平均年収は、魔法士のそれには及ばないものの、専門技術系の職種の中ではトップクラスといえる。
ましてそれが帝国内トップの魔法関連企業「ローランド工房」の技術者ともなれば――そしてオーナーにして経営者のルイーゼ・ローランドの直弟子にして片腕ともなれば、年収は10万ドルクを軽く越える。
エヴァ・イーミュン。ローランド工房第2開発室チーフ・マネージャー兼室長。
贅沢に興味はないが、興味のある物には金を惜しまない。技術者としても管理者としても有能だが、仕事一辺倒ではない。そんな独身貴族の人生を謳歌する27歳。
そして、フィリシス・ムーグ嬢の場合。
国内有数の貿易商の娘として生まれ、自身もまた10代にして戦術魔法士の資格を取って、今やトリスタン、いや、正規の、という条件さえつけば帝国内でも5本の指に入る実力者となったフィリシス・ムーグ嬢の場合。
それはもう金の話などいうも愚かな次元の問題といえた。
平均的な戦術魔法士の年収は、世間一般の30代の男性のそれと比較してもほぼ10倍~15倍といわれている。
そして当然のことに魔法士の世界は完全な実力主義で年功序列も男女格差も存在しない。
従って彼女の現在の年間収入は……もはや口にするのも馬鹿らしいレベルの話であった。
「というわけで、来週金曜、飲み会ね。もちろん代金はレイのおごりで」
1回の出動で口にするのも馬鹿らしい報酬を受け取っているはずの女は、電話越しに当たり前のような口調でたかりを働いた。
何かひどく不条理な科白を聞いたような気がして、レイオット・スタインバーグは口をへの字に曲げて天井を仰いだ。
「なあ、フィリシス」
「なによ」
「俺は下戸なんだが」
「知ってるわよ」
「それでなんで飲み会に参加して、しかも代金が俺持ちなんだ?」
そしてそもそもなんで「というわけ」なんだ、という点はこの際おいておくことにした。
そこまで遡ると、論点と結着点が微妙にずれたところで納得させられてしまいそうだったからだ。
「だから、ここしばらく飲んでないから、そろそろどうかなーって」
「しばらくどころか1回もないだろうに」
「誰がレイと飲みたいなんて言ったのよ」
「じゃあなんで俺を誘う?!」
ついにたまりかねて声を上げてしまった。
この女のこのペースにはまるとなかなか抜けられないということはよく分かっていたつもりだったのだが。
「だから、ネリンとよ」
「……………………………………ほう」
世界でいちばん参加したくない集まりだ、と内心思いながらレイオットは続きを促すように黙り込んだ。
「エヴァの方も金曜の方が都合いいって言うんだよね。ネリンも金曜ならケースSAがない限り大丈夫だってことだし」
「いや、そのあたりの都合はどうでもいいんだが」
「じゃあ何よ」
「だから、なんでそこに俺が呼ばれるのかということなんだがな」
「だって、呼ばないのに請求書だけ送ったら彼女が遠慮するでしょ」
「どのみち俺持ちなのか!?」
つまりつっこむべき一番はそこだったと。
お互い、金に困らない暮らしをしている二人だけに、飲み代程度の金でどうこういう羽目になるとは想像だにしていなかったのである。
そこはフィリシスもそうだったらしく、彼とは違った意味でやや非難まじりに意外そうな声が返ってきた。
「なによ。そのくらい安いもんでしょレイなら」
確かにそうだが根拠のない金を払うほど大盤振る舞いできる性格でもない。
どうも飲み代を彼に持たせる、ということが今回のフィリシスの目的の第一義らしいのだが、それならフィリシス自身が払ってしまえばいいだけのことではないだろうか。
そんなことを考えながら、と同時にそろそろはっきり断って切った方がいい、と判断した彼の耳に入ってきたのは、フィリシスの珍しく真剣な声だった。
「でもね、彼女にはそうじゃないのよ」
「彼女?」
「だから、ネリン・シモンズ女史よ」
ネリン・シモンズ女史は、労務省魔法管理局に勤める二級監督官である。
魔法管理官、と俗に呼ばれるその職種は、国家公務員法の定めるところの特殊専門分野第1種上級職員、という実にエリート的な分類に属する通りかなりの難関であり、必然的に高給取りでもある。
実に年収は世間一般の公務員と比較しても、資格手当や特殊技能手当などにより、約1.8倍程度。
戦術魔法士やモールド・エンジニアには及ばないにしても、独身女性が暮らしていく分にはかなり余裕のある生活ができるといってよいだろう。
しかしながらネリン・シモンズ女史の場合。
不幸にも彼の担当監督官を(半ば自発的であるにせよ)押し付けられ、連日連夜着々と残業手当を稼ぎつつあるネリン・シモンズ女史の場合、働けど働けど我が暮らし楽にならざりを体現するような人物でもあった。
なにしろ母子家庭で、しかも母親が働ける状態ではなく、妹は大学受験を控えた身である。実家への仕送りと自身の学費の返済だけで月給の大半が消えてしまう。
以前聞いた通りの暮らしをまだ続けているとしたら、彼女の生活は仕送り無しの大学生並みにぎりぎりの水準といえるだろう。
以前はフィリシスもそのへんを察していて彼女の自宅に呼びつけての飲み会が多かったのだが、ここ最近エヴァ・イーミュン女史がそれに加わって、外で飲むことが多くなった。
別に彼女を自宅に呼んでもかまいはしないのだが、エヴァもフィリシスほどではないにせよ高給取りである。一方的な饗応は少なからず彼女の矜持を傷つけるだろう。
かといって、ネリンにこの2人の飲み会に付き合え、というのはちょっと気の毒だ。
仕事を通じて親しくなったとはいえ、エヴァの方はネリンの家庭の事情など知らないし、ネリンもそのあたりを漏らして相手に気遣いを求めるほど無粋な人間ではない。
ようはお互いがお互いの立場やら心情やらを思い遣った結果なのだが、それで最も切実な被害を被るのがネリンの財布、ということになるのだ。
そこでフィリシスの出した結論というのが……。
「ようは、ネリンが気兼ねなくたかれる相手がいればいいのよね」
ということなのであった。
フィリシスは仕事上担当でもないし、友人だしで×。
エヴァはその点ではもっと関係がないし、何より彼女が金を出すとネリンの気遣いが無駄になるしで×。
まして古今東西、女の金は男が出すと相場が決まっている。
ネリンに恋人でも入れば万事OKだろうが、今のところその気配はない。というか、恋人がいたとしても一方的におごらせる関係など彼女が許しそうにない。
フィリシスの知人の誰かという手もあるが、それだと見知らぬ他人ということで彼女がもっと遠慮するだろう。
ネリンの知人で気心が知れていて、飲み代程度は平気なくらいの高給取りで、彼女がおごらせても気兼ねしなさそうな人物。
「レイしかいないよね」
「お前な」
強引な結論に間髪入れずのつっこみを返したが、その口調はどこか投げやりでもあった。
フィリシスの主張するところは分からないでもなかったし、何よりこういう手配というか段取りのようなものを彼女に任せたが最後、正攻法搦め手含め抜かりなどないことはわかっていたからだ。
つまり、逃げられそうもない。
そう判断したレイオットは、結局その話を受けた。
飲めない自分が、この恐るべき女たちの集まりに放り込まれた図は、想像するだにぞっとしないものではあったが。
「んじゃ、宜しくね」
語尾になぜだか知らないが楽しげな調子が混ざっている。
押し付けられたシロモノを不器用ながらも両腕で支えながら、レイオットはこの日何度目になるかわからないため息をついた。
目の前の2人の女と、彼の胸元にもたれかかっている監督官の、この違いは何だろう。
フィリシスが酒豪なのは知っているが、エヴァ・イーミュン女史も相当なものだということだろうか。3人がかりで、合計すればかなりのボトルを開けたはずなのだが顔色一つ変わっていないというのは…………。
「では私もこれで」
飲酒運転になるからと代行を頼んだ女史はさっさと自慢の車の助手席に乗り込む。
そして当然ながら飲まなかった彼が抱えさせられている監督官はといえば……
「ふにゃぁ…………」
猫のようなねだり声が胸元から聞こえた。
「なんでこんなに酔っぱらってるんだ?」
暗に何かしたろう、とほのめかすが、したたかさでは人後に落ちない凄腕魔法士は、別に? と返しただけだった。
「ネリンも残業続きで疲れてるんだろうからねー誰かさんのせいで」
言わずもがなの一言を付け加え、
「じゃあ、帰りは宜しく! 言っとくけど送り狼にはなっちゃだめだよー」
「誰がなるか」
「あらそう?」
底の見えない笑顔で、フィリシスはバイバーイと手を振って扉を閉めた。
「はーい、さよならぁー」
陽気な、というよりは調子の外れた声で挨拶を返すネリン。
だが、その足元はぐらぐらと震えており、彼が支えていなければ立っていることさえ危うそうだった。
なんとか助手席に放りこんで車を出す。
エンジンをかけて深夜の街路を走りはじめて数分。やけに静かな隣に視線をやると
「………………」
やはりというべきか、無警戒な寝顔に行き当たった。
「まいったな……どうすんだこれ」
ま、着く頃には起きるかな、と気安く考えながらレイオットはハンドルを切る。
とはいえネリン・シモンズ女史のアパートまで車でたった10分足らず。
おまけに深夜とあって渋滞の心配もない。
あっという間にアパート前にたどり着いたときも、お姫様はまだ眠りの園からご帰還あそばしてはいなかった。
「お嬢さん、起きてくれよ」
広めの路道に車を止めて、体を揺すってみたが、反応はない。
「ミス・シモンズ。監督官。おーい……」
「………………」
やはり反応ナシ。
ため息をついて、目の前のレンガ造りの建物を見上げる。
「確か、3階……だったよな」
抱えていけない距離でもないか。
仕方ないと自分に言い聞かせて、助手席からそっと柔らかい体を引きずり出した。
一応、鞄の中から鍵束も見つけてポケットに入れておく。
人気のない階段を上って、扉を開けて、どうしようかとしばし逡巡した。
苦学生並みの暮らしを送るネリンの部屋は1LDK。明かりを付ければ狭いキッチンの向こうに、ベッドのある部屋が覗く。
腕に抱えたこの物体を、そのまま廊下に降ろしていくことは躊躇われた。
かといって、妙齢の女性の部屋に黙って上がり込むのは、社会通念上どうだろう。
「うううんん」
レイオットのささやかな葛藤を裏切るように、腕の中の女は幸せそうな吐息を漏らす。
無防備すぎだ。
悩んだ自分が急速にあほらしくなった。
誰も見ていないし、もういいか。
ようやく開き直って、彼は一歩を踏み出した。
ベッドの上に彼女を横たえるのは、これで2度目だ。
そういや前回もこんな酔っぱらった状態だったな。
ふと、そんなことを思いつくと、ふいにフィリシスのからかうような顔が浮かんだ。
『送り狼になっちゃだめだよー』
わざわざ言わずもがなのことを念押しした彼女の表情は、明らかにその逆を期待している顔だった。
俺とシモンズ監督官で?
( あほか )
とその時は思ったものだったが。
月灯りがベッドの上の彼女を照らし出す。
夜の静けさが、不意に気になり始めた。
(………………)
駄目だ、と思う。
寝込みを襲うなど男として最低だ。社会的にも法的にも極刑に値する行為だ。そのうえ自分とネリンではいろいろと問題がありすぎるし、だいいち彼自身にそんな気は…………
「う……ん……」
ごろり、と寝返りを打った体が目の前にある。
自慢の髪に縁取られた首筋のライン、まろやかに隆起する豊かな胸元、ひねりぎみの背中から描かれる見事な柳腰、すこしめくれたスカートから覗く柔らかそうな足。
わざとか、と叫びたくなるほど扇情的な姿だった。
「お嬢さん………自分が今どんな状態か分かってるか?」
そっと寝顔を覗き込んでささやいてみる。
遊び疲れて眠る子供のように、無邪気な笑みさえ浮かべて。
すぐ近くに危険が迫っていることには全く気付いていない。
柔らかそうだ。
まず思ったのはそれだった。
触れてみたい、というよりも食べてみたい、などと感じるのは不健全だろうか?
白くってぷるんとしていて食べたらおいしそうだ。
襟元から覗く首筋の白さや、酒気を帯びたせいで僅かに紅をすいた頬や、童顔ながらも尖った顎から安らかな吐息を漏らす唇まで。
味わってみたいなぁ、と思う。
だが、その一方で気付いてもいた。
それですむわけがないことに。
どうぞと言わんばかりに上向き加減の顎にかぷりとやったが最後、その後の衝動から逃げられないことは分かっている。
傷つけずにはすむまい。
それがいやだった。
そしてそれだけが今や彼の中の防波堤なのだ。
だめだ。
熱に侵されそうな頭を叱咤して、身体を起こす。
俺はそんなに簡単に許されていい人間か?
否。
今はまだ。
ネリン・シモンズが彼にとってどんな人間かと言われれば、それは玄関の灯りのようなものだと答えるだろう。
闇の中の希望とか、嵐の中の燈台とか、そんな大仰なものに例える気はない。
それはもっとささやかなもの、もっと気付きにくくて、けれど確かに彼を生かしてきたものだ。
絶望の鋳型に自分をはめ込んでいた彼にさえ、過ぎていく日常に紛れていた喜びや悲しみが確かにあった。
愚かな自分が忘れていた、否、それがそうだと気付くことさえなかった心の動き。
彼は生きていた。
死んでいるような生でも、生きていた。
生きていたくないと思っても、彼を生かしてきた何かがあった。
それが何なのか、彼女を見ているとわかるような気がする。
戦いを終えて帰ってきた、我が家の扉をくぐるその瞬間に手元を照らしていたささやかな灯りのように。
彼が気付かぬうちに、彼を救ってきた何かが。
今目の前にある身体にすがりつくことは簡単だろう。だが「それ」はそうしていいモノではない。
彼女を傷つけることは、彼を傷つけることと同じだ。
彼女が安らかであるのなら、彼もいずれその中にあるのだ。
そう思って、彼は驚く。
自分の頬が、唇が、ひくりと動いたことに。
今。
笑ったのか、俺は。
静かな夜に、無骨なトレーラーが浮かび上がっていた。
扉を閉めて、夜気を遮る。
ふと見上げたバックミラーに自分の顔が映っていた。
笑った………?
どうやって?
そういえば、と彼は彼女に出会ったばかりのことを思い出す。
確か初めてまともに仕事をしたときも、自分は笑ったのだった。
多分生まれて初めて、腹の底から声を上げて。
自分でも驚くほど晴れ晴れと。
それから少しずつ、彼は変わったのだと思う。
笑うことも覚えた。
改めて、それを知る。
いや、もしかしたら以前から。そういうこともあったのかもしれない。
気付かなかっただけで、どこかで。
鏡に映る自分の顔を、もう一度たしかめてみる。
ふと、おさらいのように、もう一度笑顔を作ってみた。
ぎこちなく歪んだ頬はお世辞にも成功しているとは言い難かったが、それはまあいずれ彼女が教えてくれるだろうと彼は思い、脳裏に浮かんだ先の不埒な肢体については、敢えて忘れることにした。