夏がきた。
毎年この季節になると、レイオットはますますひきこもりが激しくなる。
別に暑いのが苦手とか日に焼けるのが嫌だとかいうのではなく、単に人出が多いせいだ。
街中で人ごみに紛れていても、市井の人々が放つ活気やら熱気やらが他の季節とは違う感じがして、なんとはなしに距離を置きたくなるのである。
多分、夏につきものの「長期休暇」というお楽しみムードに引きずられるせいだろう。別にそれ自体が悪いとは思わない。人間、仕事仕事で時間に追われてばかりの誰かさんのような生活では息も詰まることだろうし。
せいぜい楽しくやってもらいたい。ただし、自分の関係のないところで。
去年のバカンスを思い出しながらレイオットは、「夏の避暑地徹底特集!」と銘打たれた雑誌を白い目で見つめ―――そのあと、おもむろに頭の上に乗せた。

今年は特に何をしようという予定も立ててはいない。去年のあれはあれで楽しい思い出ではあったが、慣例化しようと思うほどのものでもなかった。だいいち誘ってくれた当人が今年は馬車馬のように忙しい毎日らしく、ろくな休暇も取れそうにない、とぼやいていたし。
幸いなことにスタインバーグ家の住居は人里離れた一軒家。真夏とはいえ、自然に吹き込んでくる風のおかげで快適そのものだ。
―――寝よ。
と惰眠を決めこむことにした―――その瞬間だった。

「海よ、レイオット・スタインバーグ!」
わけのわからんかけ声だった。
むしろ山裾近くのこの家でそんなはずないだろう、と瞼を塞いでいた雑誌を上げれば台風娘が目の前にいた。
「……きみか。ナレア・シモンズ」
そういや昼から来てたっけ、と記憶を辿りながら体を起こせば、そこにはナレアだけではなくそのご学友――エリックとフレッドの姿もあった。そして猫を抱えたカペルの姿も。
「……何が海だって?」
「だから今度の日曜日、海にいこうって話よ」
うんざりしたような表情を浮かべたレイオットに、なぜか腰に手をあてて仁王立ちのナレア・シモンズの視線がさらに鋭くなった。
「何か文句でも?」
「いや、ないよ。全然全くこれっぽっちも。行けばいいだろう。海でも山でもお望みのところへ」
「それはよかったわ。じゃあお願いね」
「…………」
何か前にもこんなことなかったか? そう思いながらレイオットは彼女との会話を反芻する。
ナレア・シモンズという娘は論理的な思考能力と、健全なコミュニケーション能力を有する、実に立派で模範的な学生だ、―――と聞いている。少なくともエリックや彼女の姉の口からは。たったひとつ欠点があるとすれば、この一本気すぎる気質だけだろう。ありていにいえば、人の話を聞いちゃいねぇ、という点である。
「……何を?」
意図の全く見えないお願い、にレイオットは頭をかきつつ起き上がった。
「だから、車よ」
「車?」
「そうよ。さっきからここで相談してたのに。人の話聞いてないの?」
彼女に言われては形無しだ、と思ったが賢明にも口には出さなかった。
「車って―――俺の?」
彼の「おくるま」と言えばいわずもがな、モールド及びその装着架台一式の運搬に使っている蒸気式トラックしかない。
「あれには人はそんなに載らないぞ。後ろの荷台に閉じ込められたままでいいってんなら別だが―――」
それではまるで囚人の護送である。とてもリゾートにいくための交通手段ではない。
「それは大丈夫です。俺の親父が6人乗りのバンを持ってますから。借りてきます」
そういって手を挙げたのはフレッドだった。
「ふうん、じゃあ運転も君が?」
「いえ……実は俺、免停中で……」
ばつが悪そうに頭をかいた。スピード違反で切符を切られたばかりだという。
「だから、運転お願い」
ようやく話がつながった。
「そりゃいいけどな。俺も行くのか?」
「そうよ。保護者同伴」
「大学生にもなって保護者ってことないだろ」
「だって、まだ20歳前だもの、私たち」
律儀というべきか。さすがシモンズ監督官の妹だ、とへんなところでレイオットは感心した。
「だから、お願いね」
そしてやはりなんとなく勢いで押し切ってしまうのも、この姉妹の共通点らしかった。

「すみません、宜しくお願いします」
当日、スタインバーグ邸までは迎えにいく、と聞いていたのでてっきり運転してくるのはフレッドの家族か誰かだろう、と思っていた。
ところが呼び鈴が鳴って扉を開けたとき、珍しくも私服姿のネリン・シモンズ魔法監督官の姿を目にして―――レイオットはおもわず固まった。
「ここまではなんとか運転できたんですけど、さすがにおぼつかなくって―――」
と言いながら車に戻ろうとするネリン・シモンズにレイオットは声をかけた。
「シモンズ監督官」
「はい?」
不思議そうにネリンが振り返る。やや背中のあいたナイロンプリントのワンピース。下に水着を着けているらしいことは背中で結ばれたビキニの紐らしきものが見えるのでよくわかる。
「……アンタも行くのか?」
「……そうですけど?」
予想外だ。
無表情な己の声が頭の隅で響いた。
保護者がいるからついてこい、と言われたはずではなかったろうか。
てっきりネリンが忙しすぎて無理だからその代役で呼ばれたのだろう、と思っていたのだ。
「どうかしました?」
「いや……なんでもない」
内心の動揺を悟られまいとするレイオットの横をすり抜けて、カペルはとっとと車に向かう。
ネリンと並んで歩くその後ろ姿をなんとはなしに見つめ、レイオットは軽い溜息とともに後を追った。

「しかし、こんな人が多いとこで大丈夫かね?」
レイオットが、バックミラー越しにカペルの方に視線をやって誰に聞くともなしに呟いた。
先シーズンのバカンスのときはカペルが行っても大丈夫なところ、という基準でずいぶん悩んだものだったのだが。
そんなレイオットの懸念を吹き飛ばすようにナレアは笑い、
「大丈夫、大丈夫。そんなこともあろうかと!」
といって鞄から取り出したのは、水泳帽。
だが、普通の水泳帽と違うのは、縁の部分をぐるりと覆う大きめの赤い石だ。

「これをこーして被るとー」
「なるほど」
石に隠れてカペルの額の赤い石(?)も目立たなくなる。万一見えても、これもアクセサリーといってごまかせるだろう。見ればナレアが選んだというカペルの水着も帽子とおそろいらしく、同じ赤い石が飾りとして取り付けられている。
「ね? かわいいでしょ?」
同意に困る問いかけに、カペル自身もとまどったような顔をしている。
「ええ、かわいいですよ。ね? スタインバーグさん」
「……ああいいんじゃないか」
ネリンが何かを後押しするように笑うので、レイオットもようやく頷いた。
それを皮切りに、4人の子供たち(実際はもう大人の入り口、くらいには来ているはずだが)は海の方に向かっていく。
保護者2人はといえば、なんとなくついて行きそびれてしまったので、パラソルの下に座ってしばらく様子を見ていることにした。

8月の初旬、ということもあって人手は多い。
だが、ナレア嬢の話によれば、このビーチは実はトリスタン郊外からわりと離れた、公共交通機関がまだ整っていないところにあるため、他のビーチよりはすいているらしい。
確かに場所取りも楽だったから、そうなのだろう。
適度な混み具合、とでもいうべきか。
街中の猥雑さがないぶん、まだマシってとこか。
そう思いながら、ちらと横のネリンに目を移す。

( てか、それは反則だよな… )

慣れないリゾート地で、慣れない水着なんぞ着て、慣れない保護者役など引き受けて。
どうにも柄でもないというか居心地が悪いというか。
そんな気分でさっきから落ち着かない。
だが、なんといってもいちばん困るのは、ともかくそれ、なのだ。

「……? なんですか?」
レイオットの視線に、ネリンがまるで無警戒に聞いてくる。
水着の上にタオル地のジャケットを羽織って日焼けに備えているらしく、ローションを手の甲に塗っていた。
「いや、なんでも」
故意に視線をはずして、レイオットは遠くを見やる。
砂浜近くでじゃれあっている4人の姿が目に入った。
( 若いってな、いいもんだ… )
じじくさいとジャックあたりが聞けば笑うだろうが、実のところレイオットを先ほどから悩ませている、それ、の正体を聞けば、青臭いのはどっちだよとさらなる爆笑を誘うこと疑いなかった。

まじめそうな顔で。眼鏡を外せば意外と童顔で。
普段はかっちりと制服姿で、迂闊にも肌を見せるような真似などしないくせに。
ちらり、と気付かれないように視線をやる。
膝小僧のあたりにローションを塗っている姿が目に入る。
すらりと伸びた足は、細いというより柔らかそうで滑らかな流線が際立つ。
しかしそれより何より困るのは……

( なんでそんなに胸でかいんだよ…… )

はっきりと谷間を形作るバストは、どう見積もってもDより上だ。
比べるのも失礼な話だが、フィリシスよりも格段に大きい。
服を着ているときはそんなこと気付きもしなかったのだから、おそらくかなり着やせするタイプだったのだろう。
脱いだらすごいんです、とはまさにこのことだった。

( やばいよなぁ…… )

それほど飢えているわけでは決してない。
むしろそっち方面の欲は薄い方なので、いきなり臨界点を越えるような羽目にはならないと思うが、それはそれ。
気構えというものがある。
こうして普段の印象とあまりにかけ離れたプライベート部分を見てしまうと、どうにも居心地の悪さが先に立った。戸惑いというか、照れくささというか。
全く違う世界の扉の前に急に連れ出された気分。
そうか、これが大人になるってことか―――って、今何歳だよお前。
などと阿呆なボケに自分でつっこんでしまってみたり。

だが考えてみれば、自分の時間は多分、あのときから止まってしまっていたのだ。
未熟なところを残したままで、身体と経験値だけは歳相応で。心の中で置き去りにされた自分がようやくよたつきながら歩き始めたばかりの今。

( なのに、いきなりこれかよ )

それはまだ早すぎるんです先生。

またしても、ちらり、と投げた視線に対しても、相手は何の不審も抱いていないようだ。ただただ不思議そうな顔だけを向けてくる。

(……無防備すぎる )

黙ったままのレイオットにつられたのか、ネリンもなんとはなく居心地悪げに沈黙している。

( ……やっぱり止めとけばよかったかなぁ )

海に行こうと妹に誘われた時、何年ぶりかでひっぱりだした水着はとっくにサイズが(特に胸周りが)合わなくなっていた。
ちょうど彼氏と旅行に出かけるという署内の後輩(管轄部署は違うが)といっしょに新しい水着を買いにでたのはいいものの、今年の流行ですと店員に勧められたそれは、どうひいき目に見ても露出度の面で派手すぎる気がした。
ためらう彼女を尻目に、これくらいいいじゃないですか、と自分よりいくつも年下の同行者は平気そうな顔で試着などしているものだから、ネリンも恥ずかしいとは言えず、つまらない見栄が先に立ってつい流されるようにして買ってしまったのだ。
我ながら浅はかだったと思う。

「…………泳がないのか?」
ようやく、ようやく、会話の糸口が見つかって、ネリンもほっと緊張を解く。
「いえ、私は後で……スタインバーグさんは?」
「保護者の責任を放棄するわけにもいかんだろ」
「荷物なら見てますよ」
「あんたも立派に保護対象だよ」
「ええ?」
私そんなに、幼く見えます?
童顔なのが悩みの種、というだけあって軽いショックを受けた風のネリンに、レイオットは苦笑を向ける。
「違う意味での話だよ」
「え?」
不要領顔で聞き返すネリンは自身の今の格好が他人にどう見えているのかさっぱり分かっていないのだろう。無防備の極みだ。こんな女を一人っきりにすべきではない、絶対。
レイオットはまたしても故意に視線を反らせ、波打ち際ではしゃいでいる被保護者たちに目をやった。
「いってこいよ。俺はここで荷物見てる」
要するに誰かといっしょにいろと、そう言いたいのだが、ネリンはやっぱり動こうとしない。
膝を抱えたままでなんだか所在無さげだ。
「…………? ずっとそうしてる気か? お嬢さん」
「……ええ、………というか、………………………………………実は泳げないんですよね、私」

「はあ?」
じゃあなんで海に来てんだ?
レイオットの当然の疑問に、ごまかすようにネリンが早口でまくしたてる。
「ナレアが保護者がどうしてもいるっていうから。その、大人が貴方だけっていうのも困るっていうし。こういう場合はやっぱりちゃんと社会的な地位のあるそれなりの人間にですね、ついてきてもらいたいって言われて、そりゃ私泳げないですけど一生そのままってわけにもいかないだろうからいい機会だからちょっと練習してみようかなっていう気持ちもあって、しかたないじゃないですか私、山育ちで学校も大学も近くに海なんかなかったしどういうわけか水に浮きにくいみたいで、体育の授業でも全然上達しなかったし………」
「わかった。別に責めてるわけじゃないから」
放っておくとさらに深い墓穴を掘り倒しそうだったので途中で遮って止めさせた。
「そういうスタインバーグさんは泳げるんですか」
「トリスタン市民は水には慣れてるもんで」
基本的に海沿いの町なのだ。アルマデウス第二の規模を誇るこの商業都市は古くから海運で財を築いた町でもある。鉄道網はここ最近で急速に整備されてきたとはいえ、輸送コストが合わないという理由で海運はまだ充分に需要を満たしていた。
ちなみにレイオットは水泳については誰に教わったという記憶もない。気付いたら泳げるようになっていた。そんな感じだ。とはいえ日常的に泳ぐ機会もないのでそう得意というわけでもない。
「カペルちゃんは泳げるんですか?」
話題を逸らしたいのか、純粋に興味だけなのか、ナレアの隣にいる赤毛の少女を見ながらネリンがつぶやく。
「さあ? あいつは基本的になんでもそつなくこなすから……」
言った傍からナレアと一緒にすいすい泳いでいくのが目に映る。
「………泳げるみたいですね」
うらやましそうに言ってネリンはため息をついた。
自身を顧みて、ということだろう。
笑うべきかどうか迷っているうちに、エリックとフレッドが帰ってきた。

僕らが見てるからどうぞ、という声に押し出されて二人して波打ち際まで出る。
羽織っていたパーカーを脱いでしまったネリンはもう隠しようもない水着姿だ。
居心地悪い思いが増す。
一方、ネリンの方はといえば、レイオットの逡巡よりも目の前にある水の塊の方が恐ろしいらしく、果てしなく広がる大海原を息をのんで見つめている。
おそるおそるつまさきを水に浸し、意を決したように一歩踏み出す。
泳げない、という感覚がわからないレイオットは何もそこまで緊張しなくてもいいだろうに、と思いながら後をついていった。
腰のあたりまで水につかったところでネリンが立ち止まり、振り返った。
「お、お願いします」
つまるところ水泳のご教授を願います、ということなのだが、レイオットとしても人に教えた経験などないので、必然的にまあやってみな、ぐらいしか言えない。
おぼれそうになったら助けよう、という程度しか考えてなかったのだが。
最初のひと蹴りでものの見事に彼女は沈んだ。

ずぶぬれのネリンに手を貸して立たせてやると、うう、という恨み言のような声が聞こえた。
「………………………本気で泳げないんだな、あんた」
「そう言ったじゃないですか………」
たいていのことは優等生的にこなすネリンだがレイオットが知る限り苦手なものもあって、どうも得手不得手が激しいらしいとはつい最近気付いたことだった。
( 料理と水泳はダメか。 )
どっちも得意な分野に入るレイオットはふとおかしさを感じて頬を緩ませる。
( ま、そのへんは補い合ってるってことなんだろうな )
自分にないものを他者に求めるとはよく言ったもので、レイオットは自身がネリンに依っている部分が結構あることにかなり以前から気付いている。仕事の面ではなく、主に個人的なところで。
それを思えば一方的に借りばかり増える関係よりは、彼女の方にも少しくらい不得手があってくれた方がいいような気がした。
そういう欠点も可愛いよ、と思うあたり、相当自分はどうかしている。

「ま、徐々にどうにかすればいいだろ。泳げなくても別に困らないし」
「それはそうなんですけどね……」
それでもネリンにとっては恥じるところが大きいのか、手を取られて素直についてくる。
足のつかない場所にまで連れ出されようとしていることには気付いていないようだ。
ちょっとした実験、と思って素知らぬ顔で「段差に注意」と札がかかったラインを越えてみる。
ふ、と前ぶれなく後ろの身体が沈んだ。
「うきゃあああああっっ!!!」
周囲の注目を集めるのもかまわず、ネリンが必死でレイオットにしがみついてきた。
段差といったところで僅か20cm程度、軽く蹴るようにして歩けばなんてことない深さなのだが、泳げない人間にとってこれ以上の恐怖はないのだろう。
「ああ、ほら落ち着け、落ち着けって! しがみつくな俺も溺れる!」
あやすように腕をとって引き上げ、足の立つ位置に戻してやると恨めしげな涙目に行き当たる。
「ひっ、ひどいじゃないですかっ!! 私死ぬかと思いました!本気で!!!」
「ああ、悪かった悪かった。でも意外とああいうんで気付かずに泳げてたりもするんだけどな。普通」
「やっぱり適性ないんでしょうか……」
途端しょげかえるネリンに、いやまあ、と慰めにもなってない言葉をかけて、じゃあ、あっちでちょっと練習しようか、と浅瀬の方を指さした。周囲の目がなんとなく痛かったからだ。
別にわざと溺れさせようとしたわけではないのだが、多分周りはそう見ていないだろう。

….未完