――――二人が、暮らした。
[ハウルの動く城//ソフィー×ハウル]
『ぼくたちって、これからいっしょに末永く幸せに暮らすべきなんじゃない?』
そう言った時の彼の瞳に嘘はなかった。
どこまでも優しくて、どこまでも誠実な、子供らしい熱心さに満ちた瞳。
でもその瞳の中のどこまで探しても、見つけられなかったものがある。
それだけが彼女の刺。見えない消えない透明な傷。
青く澄んだ湖のほとり、少し風の強い日に、洗い立てのシーツが翻る。
『まったく、あんたってどうしてそんなにきれい好きなんだろう!』
昨夜の晩も午前サマ帰りの恋人は、朝も早くに叩き起こされ、寝具を奪われたお返しにきれいな顔を歪めて皮肉をひとつくれた。
『あたしは掃除婦なんだから当然だろお若いの』
昔の口癖を繰り返せば、弾けるような笑い声が冗談事に流した。何ごともない朝の平和な家族図。
象徴のように揺れるシーツの波は、少し波乱含みに風に煽られていて、なぜだろうか。胸の奥がざわざわした。
本日晴朗なれど波高し。雨は降らなくても、雲は白くても、完全にノープロブレムとは言えないお天気。でも気にするほどじゃないね。それほどひどくないよ。自家製の風力計を見ながら、飛び立つカルシファーにだけ、流されないよう気をつけてと恋人は言った。
そう。それほどたいしたことじゃない。
子供らしい好奇心と大胆無謀の勇気に、不釣り合いなほどの魔力を備えた恋人は、たいていのことはそういって乗り切ってしまうので、時々重箱の隅までひっくり返すように城中の大清掃に走る彼女のことを、『きれい好きのソフィー』の奇行として面白がっているくらい。その裏で多分隠しておきたいものはちゃんと彼女の手の届かないところにしまいこんでいるのだろう。
最近ではマイケルさえその術を覚えたようで、以前のようにマーサから来た手紙を見かけることはなくなった。『男同士の秘密ってやつだよ』。二人して人を仲間はずれにしてくれた。
そういいでしょうよ。そうやっていい気になってれば。
秘密の数なら女の方が多いって、そのうちわかるわよマイケル。
途端に不安そうになったマイケルはまだ可愛げがあるってもの。
彼ときたらそれさえも冗談事にように笑っているばかりで。
秘密の数も、傷の数も多分きっと、女の方が多いのよ。
彼と暮らした時間を考えれば、老婆でいた間の方がずっと長くて、例えば彼が自分の正体を知っていたとしても、冴えない帽子屋の跡取り娘だった自分のことは何も知らない。
昨夜の晩、王様のご用事で出かけていたって、ホント?
それさえも聞けない自分のことを彼は気づかない。
貴方がいっしょに暮らしたいと言ったのは、しっかり者で元気者のソフィー婆さん?
それとも地味で冴えない灰色ネズミのソフィー・ハッター?
たとえばあのまま魔法にかからずにいたとして、街ですれ違ったレティーとマーサと私、あなたが最初に目がいくのは多分きっと私じゃなかった。
『ぼくたちって、これからいっしょに末永く幸せに暮らすべきなんじゃない?』
けれど優しい瞳のどこまで探しても、彼の瞳の中に、彼女と同じ傷を探すことはできなかったのだ。
心をなくしても当たり前のように愛されてきた人は、与えられた優しさの裏の意味まで考えたりはしない。
あたしがアンタのところにきた目的は魔法を解いてもらうことだった。
アンタの世話を焼いたのは、他に行く場所をなくしたからだった。
取り戻したハートに有頂天の彼は、目の前にある分かりやすい形に、生まれたてのひな鳥のように飛びついたのだ。友人と弟分と母親と。分かりやすい家族の縮図。平和でちょっとどきどきする、愉快で素敵な冒険のような「幸せな」日々に、子供のように夢中になって。
けれどそんな日々の中ですら、彼の負わせた傷や与えた哀しみに怯える灰色ネズミのソフィーがいたことを、貴方は知っていた?
「ソフィー! そろそろお昼ご飯にしよう!」
振り返れば暖炉の部屋から、窓を全開に開け放して背伸びしている彼が見えた。
「今行くわ!」
叫んで返せばうん、とうなずいてその姿は消える。
幸せな家族の縮図。
あたしは貴方の中の、母親で妻で恋人で。あなたの描く都合のいい幸せが、まるでままごとみたいなものだって、いつかは気づく日が来るのかしら。
やっと取り戻した心に夢中になっている貴方が、いずれ夢から醒めて、心に傷を負う日がくるのかしら。
貴方に出会った瞬間に、叶わない恋を自覚したあたしのように。
雷に打たれたような激しい恋を、まだ子供の貴方は知らなくて、それは決してこんな穏やかな風景にはそぐわないものだから。
せめて幸せの象徴だったあたしを、貴方の中に残していて。