今日もまた旦那様におしかりを受けた。
 理由はマリク様を甘やかしすぎだとかなんとかそんなささいなことだったと思う。
 けれどまあ理由などどうでもいいことだ。幼い頃から父とも慕ってきた人に叱られた。
 それだけで一日がブルー。
 その姿はさながら姑にいびられるいたいけな嫁の姿に似ていなくもなかった。
 ため息とともに、主人が汚したテーブルクロスを洗うリシド、当年とって20歳。

「・・・なあイシズ。もうそろそろいいんでないかな・・」
 リシドに皿を投げ付けた時とはうってかわった上目遣いで、彼は帳簿をつける愛娘にお伺いを立てていた。
「ダメです。まだ当分はそのままでいてください」
 対する娘の返事はにべもない。外見は美しかった妻譲りだが、中身はといえば墓守一族きっての女傑と言われた祖母そっくりだということを、父親である彼は誰よりもよく知っていた。
「しかしのう。リシドもいいかげんワシのことを恨むようになるんじゃないかと・・」
「別にいいじゃありませんか」
「イシズ・・」
「だって、マリクが生まれた時点で養子にする必要はなくなったのでしょう?」
 澱みなくペンを走らせながら、その視線はさきほどから帳面からいささかも上げられることなく、イシズは父をあしらう。
「それはそうだが・・あれも生まれた時からワシらが育てたようなもんだし・・」
 さり気なく養育権を主張すると、娘の背中がぴくりと反応した。
 切れ長の眼がゆっくりと優美な頬のライン越しに彼を射ぬく。
 彼女が言葉を開く前に、彼は愚かな抗議などしたことを心の底から後悔した。
「お父様」
 ゆっくりと呼びかけるその声は鈴の音のように美しい、といってさしつかえない。
「リシドはあれでいいのです。今は」
 だがしかし言ってることは砂漠のハイエナより残酷だ。
「彼を息子と呼びたいのなら、もうしばらくは辛抱して頂きませんと、ね・・」
 フフフ・・と笑うその眼が完全にヤバいイシズ・イシュタール18歳。これでもお年頃。
 墓守の一族はファラオからお預かりした遺産を守り続けるという指命を帯びて、3000年間、一村まるまる盗賊などというこの国で、幾多の墓泥棒たちと熾烈な攻防戦を繰り広げてきた、いわば世界一の歴史を持つ秘密警察兼諜報機関である。
 従ってこの一族には時々、こういう人間が出るのだ。
 敵であるはずの憎むべき墓荒らしたちよりも、よほど盗賊に向いているのではないかと思うような策謀家が。
 目的のためなら手段を選ばず、けれど多少回りくどい手を取ってでも、自らの手を汚すことなく確実に、目的のものを手に入れようとする人間が。

「ご心配なく。リシドは父上を嫌ったりしませんわ。拾われた犬は飼い主を恨んだりしないものです」
「お前ほんとにあやつが好きなのか・・?」
 愛する男を犬呼ばわりする娘の心理が今ひとつ父には測りかねる。
 やはり母親が早くに死んだせいだろうか。どこの世界に愛する男を手に入れるために父親に虐待させる娘がいるだろう。
「もちろんです。リシドはそういうところが可愛いんじゃありませんか」
「・・・・・」
「あんなに立派な体格の彼が、父上の前で犬のように従順に体を縮こまらせているところを見ると・・・」
 ウフフフフ、と人には決して聞かせられない笑い声が低く室内に響く。
「・・・・かわいそうだとは思わんのか・・」
 父親の躊躇いがちな抗議に、きっ、と振り返った。
「リシドをかわいがっていいのはわたしだけです。」
 かわいいの意味が違う、と思ったがそのあまりに剣呑な視線に父は言葉を飲み込んだ。
「マリクはいいのか?」
 ふと父よりも姉よりも彼になついている息子のことを思い出して聞いてみる。
「あれはいいんです。マリクが一方的になついているだけですから」
「・・・そうか」
「それに」
 今やエジプト全土に広がった一族のネットワークを完全にとりしきっているイシズは、財務帳簿を閉じてにっこりと笑った。
「未来の義兄に対する敬意は持ち続けていてもらいませんとね」

 数年後、芝居が高じてなかば本気で虐待を初めてしまった父親は、ダークホースのマリク(闇)によって殺されてしまうのだが、そのそもそもの原因を考えるだに救われない話ではあった。
 しかし因果の報いか、愛する男と弟にも去られてしまった彼女は、凝りも困りもせずに、また別の手足を使って邪魔者(マリク闇人格)を葬り去るため、神のカードをもあっさりと海馬瀬人に渡してしまうのだが・・・愛に目がくらんだ女にとっては一族の大義も世界の運命も、しったこっちゃなかった。