=====side:dakki=====
清冽な白。
それがあの男の第一印象であったと記憶している。
苛烈なまでの意思が臨界点すれすれの炎のように白く燃えていた。
私を侮辱し、打ち倒し、跪かせ、放逐し、そして一瞥だになかった男。
殷の大師、聞仲。
そんな名だったと記憶している。
眼下にそびえる宮城は、100年前と変わらぬ豪壮さと同時に合理的なまでに画一化された整然さを保っていた。
さもありなん。
かの男が治める国ならば。
「ご覧。妲己。美しいだろう。私の国は。」
「ええ本当に。紂王様のおっしゃるとおりですわん」
傍らにたつ男に同意しながらも妲己は振り返ることすらしなかった。
そう。確かに美しい国だ。まだ臣は汚職と怠惰を覚えてはおらず、民は重税と災害に疲弊してもおらず、ただ平和に飼いならされた家畜のような幸福をかみ締めている。
「この国は貴方のものですわね? 紂王様」
「無論。予の国だ。」
根拠のない自信に満ちた笑顔は、それだけに空虚であった。
飼いならされた家畜の笑顔。
妲己は嘲笑った。
はやく帰っておいで。聞仲。
でないとこの国はもたないよ。
ふと漏らしたつぶやきに傍らの男が不思議そうに彼女を振り返ったが、彼女は振り返りさえしなかった。
月下の舞踏。
爛熟する花達。
闇に浮かぶ露台。
緩やかに飛ぶ柳絮。
湖面を揺らす風の音。
翻る女達の衣装と衣擦れ。
祝宴は果てるともなく続き、人は簡単に欲望に落ちる。
その耳に、瞳に、手に心地よいものだけが人を捕らえ、捕らえられれば食されるだけだ。
ああ、おいしい。
人の欲望は妲己のもっとも好む食料だった。
恐怖と憎悪のスパイスがあればもっとよい。
飼いならされた小羊たちは疑うことを知らない。罠が張りやすくて張り合いもなかった。
刺すような視線で酒宴を見つめる男だけは例外だったが。
「どうしたのん?聞仲ちゃん。せっかく貴方のための宴なのに、そんな怖い顔しちゃダメよん」
ことさらに甘い声で話し掛けると不快気に眉が上がる。それでも視線はこちらを向かない。返事もなかった。
「楽しんでる?聞仲ちゃん」
「楽しんでおります」
「嘘つきねん」
この一言は相手に届かないように呟いた。ふふふ、という意味ありげな笑いだけが男の耳に届いただけだった。笑いに意味などないことも、男は知っていて、だから何も答えなかった。ことさらに怒ることもしなかった。彼にとって不快なのは女ではなく、女によって変えられた彼の王国であった。無意味な宴もそのひとつで、その場にいること自体が苦痛だったから、今さら不快の種が増えたところで何程のこともなかった。
「聞太師は宴がお嫌いのようですわん。そろそろお開きにいたしましょう」
常ならず早い終幕にこれから本番、と待ち構えていた楽士たちが思わず演奏をやめてしまった。
ぽかん、とした沈黙だけが周囲を支配する。
妲己にしては珍しく建設的な意見だと思い、聞仲は思わず顔を上げた。
目が合ったとき、勝ち誇ったように笑う妲己を見た。何故かはめられたような気がした。
どうして急に止めてしまったのか、と妲己に問うたのは義妹の王貴人だった。
今ひとりの義妹はとうにお気に入りのぬいぐるみを抱えて夢の中だ。
「別に。退屈だったからよん。」
「だったらもっと楽しい趣向を考えれば宜しかったのに。お姉様ならその場ですぐに思い付かれたでしょう?」
「いいのよ。今夜の主役は妾じゃないんだし」
鷹揚に笑って、妲己は、彼女を知るものからには到底信じがたい程の譲歩をみせた。
「聞仲。あの男」
忌ま忌まし気に美しい顔を歪ませる。そうすると本来の妖怪としての性が垣間見えてその方が美しいと妲己はぼんやり思った。
「いつまで自由にさせておくつもりですの?」
「だめよん。聞仲ちゃんはまだ役に立つのだから」
「崑崙の仙人たちとの戦のために? 果たしてあの男ひとりで対抗できますの?」
「できるわ。聞仲ちゃんは強いもの」
その言葉の響きに僅かながら違和感を感じて王貴人は妲己の美しい横顔を見つめた。
「お姉様?」
「聞仲ちゃんは誰よりも強いのよん。妾でも太刀打ちできないかもしれないわん」
一千年を経た妖狐の気弱ともとれる発言に、王貴人は狼狽え、反論した。
「で、でも、、、それは百年も前の話でしょう? 今のお姉様は金鷙島の通天教主様すら敵ではありませんわ、、、」
「そうかもしれない。でもそれでも聞仲ちゃんは妾より遥かに強いのよん」
妲己がなぜそこまで聞仲を買っているのか、王貴人には分からなかった。確かに人間上がりとしては強い方かもしれない。七大宝貝の一つ、禁鞭の所持者である。それでも妖怪仙人とは格が違う、と王貴人は思ったし、それは金鷙島のみならず仙人界そのものの常識(セオリー)といってもよかった。妲己とて七大宝貝の一つ「傾世元穣」を持っている。同じ条件なら妲己の方が上だ、と王貴人は信じていた。その義姉が戦う前から敗北を認めているのは不可解きわまりなかった。
そしてもっと分からないのは、そのことを妲己が「喜んで」いるらしい、という事実だった。
『去れ、女狐』
百年前の聞仲を彼女は脳裏に強く焼きつけている。
彼の王国に彼女は必要ない、と彼はいい、むしろ有害ですらあると判断して彼女を追い落とした。
妲己を射抜く冷徹な瞳には、美しい炎が燃えていた。
月のように白くて浄らか。
夜の虚空に浮かぶ朧に真白な球体を見つめる度、その光を身に受ける度、妲己は密やかな歓喜を覚える。
熱量を持たぬその光は浴びるごとに身を冴え渡らせ、太陽のそれよりもくっきりと地に影を造る。その影さえも不可思議な動きを見せそうな魔力が月の光にはあった。古来より− −月はその満ち欠けによって吉兆を表し、人を狂わせる力を持つという。月の光を浴びて立つその姿を、なるほどかつて彼女の賛美者たちは天女に例えもし、妖女と罵りもした。彼女が彼等の血を浴びるのと同じ程に、彼女は月の光を浴びることを好んでいた。
お月様は処女。誰にも汚されたことがない。
身に落ちる朧な光、浴びているうちにいつしかその身のうちから発光していくようなその白い光線は重さも熱さもなく、ただ衣のように身にまといつく。
ああ。
ため息とともに至福を吐き出した。
かの男に抱かれているよう。
いや違う。
あの男の視線は月の光よりも激しい熱を以てこの身を焦がし、その抱擁はきっと灼熱の陽の光よりも熱くこの身を焼くだろう。
してみるとあの男の姿は陽の光にこそ例うべきかもしれない。
いや違う。
やはり、と妲己は思う。
あの男の視線がこの身を焼くのは、その光の凍てつくような冷たさゆえだ。
死者よりも冷たいその肌ゆえだ。
月の光は死んだ光。
冷たく激しくこの身を焦がす。
誰にも汚されたことがない。
「ふふふ」
遊びましょう。聞仲ちゃん。
冒涜と、裏切りと、欲望と、憎悪と、悪意と、孤独と。
ありったけの不純物を集めて。
遊戯をしましょう。
誰にも汚されたことのないこの王国で。
密やかな企みを持ちかけるように、妲己は笑った。
笑い返されたような気がした。
月に。
=====side:bun-chu=====
誰かが笑ったような気がして、聞仲は振り返った。
彼の執務室は王宮のいちばん奥、玉座にもっとも近い部屋にある。
畢竟、それは後宮にももっとも近いことを意味していた。
そら耳かもしれないその笑い声に、聞仲は反射的に妲己を思い浮かべていた。
今やこの王宮で楽し気に笑顔を浮かべるものはあの女しかいない。
彼の教え子でもある王はもはや傀儡のように感情らしいものを表さなくなってしまっていた。
あるように見える感情の起伏は女ひとりに操られたものにすぎない。
妲己。
忌ま忌まし気に立ち上がり、背後の月を見た。
露台から見える見事な満月は、満ちる前よりもいっそう大きく中空を支配している。
そのどことなく赤い色に不吉な予感を覚えて、聞仲は顔をしかめた。
あの女のようだ。
夜の闇を我がもの顔で支配し、満ち欠けとともに人を狂わせる。
陽の光のもとではなんということもない王宮の庭も、月の光に照らし出された瞬間、異質なものが混ざったように無気味な影をつくり出す。
かつて彼の王国で、彼の知らないことなどなかったというのに。
それが正しい姿であるとは認めたくなかった。彼の王国にはふさわしくない。
光に満たされた世界。正義と公正さに満ちた祝福された王国。
彼の愛する祖国は常にそうであるべきだと信じた。
光を見たことのない獣が、太陽に焦がれる姿に似ていなくもなかった。
彼の愛する、栄光なる世界。
激務を終えて戻った私室に女の姿を見い出し、聞仲は顔をしかめた。
いつの間に入ったなどという愚問を、彼は発しなかった。いつものように短く退去を促しただけだ。
対する女の返事もいつもどおりだった。ふざけて、はぐらかす。これがこの女の対人条件反射だと聞仲は知っていた。
「疲れているのね、聞仲ちゃん」
からかうような声を無視して聞仲は背を向ける。事実であってもこの女の口から出た言葉は認めたくない。
「いつまでこの国にしがみついているのかしらねん? 貴方の大切な大切な王国はもうどこにもないのよん」
出ていこうとした聞仲の背が振り返り、ゆっくりと妲己を射る。
「殷はなくならない。この国は私が守る」
底光りする視線にさらされても妲己は動じなかった。あくまでも口元に笑みをたたえ。
「でもそれは本当に貴方の望んだモノなのかしら?」
口調が少しかわっていた。
月を背にして陣取っていた窓枠から腰を上げ泳ぐような足取りで近付いてきた妲己は、気がついた時には至近の距離にいた。
闇の中、わずかに早い呼吸が伝わる。この女でも息をあげることがあるのかと聞仲はわずかに違和感を覚えた。
「いいえ。貴方の望んだ国はどこにもないのよん。理想の国なんて本当はどこにもない。夢の中にさえ存在しないわ。お伽噺なのよ、聞仲」
秘密ごとを打ち明けるように妲己が顔を寄せる。せっぱつまった声が彼の感じた違和感を増長し、わずかに彼を落ち着かなくさせる。
「理想?」
瞬間で彼は落ち着きを取り戻していた。心の奥深くは動じていない証拠に、彼女の言葉を反芻し、ふと笑みがもれた。
「お前は何か勘違いしている。私はこの国を理想の国だなどと思ったことは一度もない。」
「そうかしら? 貴方は自分の思い通りの国をこの地に興そうとしている。貴方にとってこの国は理想の王国なのではないのん?」
「理想か。それを語るには必要なものがある。力だ。そして畢竟、力とは他人を圧するためにある。理想とは叶えようとした時点で堕ちていくものなのだ。永久に実現などしない。理想を抱くものは例外なくその手に累々たる屍を抱く。正義は理想ではない。公平ですらない。理想は善悪の彼岸にあり、正義は善と悪でなりたつ。両立などしようはずもない」
妲己は聞仲が笑っていることに気がついた。そして彼の笑みが焼きつけられるごとに自分がどんな表情をしているのかが分からなくなった。
「お前は好きに遊ぶがいい。だがこの国を害うことだけは許さん。覚えておけ」
翻った背が扉の向こうに消えるより先に、妲己の手が聞仲を捕らえた。
気をとられた次には、柔らかな唇が。一瞬だけ触れて離れたその感触は意に反して冷たかった。やはりヒトではないのだなと場違いな感想を抱く。
「離せ」
薔薇の色をした瞳が闇の中で光る。白い肌とあいまってあの月のようだと聞仲は思った。赤い、不吉な月のようだ。
「これは賭けよ。聞仲ちゃん。妾は必ず、この国を滅ぼすわ」
「お前とする賭けなどない」
そうして閉じられた扉を、しばし見つめた後、妲己は振り返り、机の上にあった筆を手に取った。
最初から決着はついていた。そもそも勝負にすらなっていなかった。彼女がこの国を害い破壊と堕落をまき散らすことと、彼がこの国を守ることの間にはなんの関係もなかった。変容していくこの国で、それでも彼は生き続け、守り続け、君臨し続ける。それは愛に似ていた。献身は対象を忖度しない。裏切りなど意にも介さず。
一人取り残された彼の部屋で相手にもされなかった惨めな望みを抱いて妲己は一人立ち尽くす。
愚かな自分を背後で月が笑っている。
傍の書き物机の上から、彼女は筆を手に取った。
翌朝。
執務室を寝室代わりにした彼は、私室の寝台の上に置かれた一枚の絵を見い出す。
月に向かって吠える獣。
確か『無駄な行為』を示唆する意味があったはずだ。
皮肉のつもりかと一笑にふした彼が、真実の意味を知るのはまだ先のことである。
今は月だけがそれを知っている。