「おーーわったーーーーー!!!!」
ばんざーーい! とばかりに両の腕を豪快に広げ、ついでにこきこきと2、3度こった首をほぐして、黄飛虎は大きく息を吐き出した。
「やーれやれ。やっとこれで家に帰れるな」
副官の入れてくれた茶を飲みつつ、まだ彼の前でばたばたと書類の山を抱えて右往左往する部下達を見つめる。気の毒だとは思うがともあれ彼の分の仕事は終わったのだ。
これでかーちゃんとひさしぶりにいちゃいちゃできるなーーなどと考えていると、回廊の向こうを小走りに行く人影に気付いた。
張奎だ。
またせわしげに書類を手にして向かっている先はおそらく彼の唯一にして絶対の上司のもとに違いない。
「どーしてっかなーーー?アイツ」
帰る前に一度顔を出しておくかと考え、荷物をぱっぱとまとめて執務室を後にする。
「それじゃーな! お前らも早く帰れよーー」
陽気にふられた手に部下達の悲鳴が雨霰とふってくる。
「むごいですぅぅ!! 将軍閣下が、書類決済を溜めたせいで僕らは残業してるっていうのにぃぃぃぃ!!!!」
「上官横暴っ!! このしうちは忘れませんからねぇぇぇぇぇ!!!!」
悪いことしたなーーーとか思いつつも3歩歩いたら忘れているのはこの男のとりえなのか欠点なのか。
せっぱつまらないとやる気が起きないタチの彼のために彼らはせっかくの休暇前の日に普段やらずにすんでいる残業をするのである。
そう、明日からは休暇。それも普段めったにない長い、長い、お休み。西洋の国では『ろんぐばけーしょん』とか言うそうである。


ことの起こりは妲己のたあいないおねだりから始まる。
殷の朝歌においては政庁諸官の休みは年度の始まりから決まっている。夏の間、避暑と称してやや北方の方に宮廷を移動することはあるが、政務そのものを休んでいい日、というのはあまりない。
なのに、あの女狐がまた怪し気な西洋の決まりとかいうのを持ち出して強引に「ろんぐばけーしょん」とか言うのを決めたのだ。
「たまにはみんなで羽をのばすことも必要よーーん」
たまにって、あんた四六時中、羽のばしほーだいじゃんかよと心の中でつっこみを入れたのは黄飛虎で、敢然と反対意見を唱えたのは聞仲だ。
『そも国の中枢たる政庁をそのような馬鹿げた理由で閉められるものか! 冗談も休み休み言えこの女狐!!』
『じゃあ、この休暇が終わったらいうことにするわん』
『本気でとるな馬鹿モノ!!』
からかわれているのだということに自覚があるのか、聞仲よ。
『でももう決まっちゃったのよん(はぁと) ほらこの間の朝の御前会議の議事録に残ってるわん』
あら、聞仲ちゃんは出張してていなかったときねん、とわざとらしくつけくわえたが、いない間だから都合よく決めたことは疑いない。
『そんなわけだから、妾も宮廷から失礼するわねん。また休暇明けにねん。紂王サマん」
『え? 私もつれていってくれないのか?』
妲己はいつもいいことを言うなとやにさがっていた紂王はいきなりの発言に驚いたようだ。
『休めるのは、政庁諸官だけですものん。王様はダメなのん』
『妲己も王妃……』
『妾は後宮の女官だから、いいのん』
むちゃくちゃな論理だが、一応法規上はそうなるので、誰も文句を言えなかった。
聞仲ですら、この女が一時的にでも宮廷から姿を消すと知って(その間にどんな悪巧みをするのかは別 として)反対意見をひっこめたようだ。
『さあ、明日からは楽しいろんぐばけーしょんよーーーん』

明日ーーーーー!!??』

 いきなりかい。
だが御前会議で決まったことに、まして妲己の言い出したことに誰も逆らえるわけがないのである。
そんなわけで、黄飛虎の部下たちの繰り言に戻るわけだ。

「よう。どうだ、案配は」
聞仲の執務室は、彼の倍はあろうかという書類の山で溢れかえっていた。
彼が勢いよく扉をあけたはずみで幾枚かがひらひらと宙を舞い、張奎を慌てさせる。
当の聞仲の姿は、、、、
「いないのか?」
「いる」
きょろきょろと室内を見渡す黄飛虎の問いに間髪入れずに返事がかえったが、その姿はどこにも見えない。
どうやら書類の山に埋もれて隠れてしまっている様子だ。
「、、、、たいへんそうだな」
「そう思うならもうちょっと早く書類を提出しろ」
どうやら彼が溜めに溜めた書類が聞仲の元に回ってきているようだ。これは風向きが悪いとばかりにそうそうに退散することにした。
「終わりそうだったらひさしぶりに我が家で食事でもと思ったんだが、、、」
「ありがたく気持ちだけうけとっておく」
声だけしか聞こえてこないが、そうとうストレスがたまっているのだろう。声が隠って聞こえるのは書類から一瞬たりとも目を放さないでいるからに違いない。
「じゃ、じゃあな、明日にでもお前んちに顔出すわ」
返事はなかった。紙が舞う音と、張奎がばたばたと走り回る音、そして筆の先が滑る音が絶えまなく聞こえてくる。
多少の罪悪感に捕われながら、彼は愛しい妻の待つ我が家へと、帰途についた。

 

 

 

次の日。
よく晴れていい天気だった。
ひさしぶりに妻と仲良くできる時間を過ごして彼の気分は爽快だ。
さーて、聞仲んとこに遊びに行くかと彼は昼前に我が家を出た。
彼の家と聞仲の家は馬を飛ばして半時ほどのところだ。もともと高位高官の館は王宮の近所に固めて建てられている。地領を賜ったものの中にはそちらの方に戻った者もいるようだが、黄飛虎は自分の地領は弟たちに任せていた。なにせ大所帯の一族なのでもらった地領のほとんどを分けてしまうと彼の分まで残らない。総領という立場上、宮廷に近いところにいる必要もあった。いざというとき一族のものをかばうには宮廷内でそれ相応の地位が必要だからだ。
閑話休題。
ところで、聞仲は独り身である。
人間だった頃は一族の者もいたはずだが、300年も生きている間に家族係累はみな死に絶えてしまっている。
そろそろ嫁さんでももらった方がいいんだろうなーーとは考えながらほてほてと馬を進ませていると目指す聞仲の館の門がようやく見えてきた。
「さーてアイツもう起きてっかな」
品行方正な彼のこと、まさか寝坊などするはずもないだろう。以前、たまの休みの日に彼の館に止まっていった時など早朝の5時に起きて太極拳がてら庭の草むしりをしていたことを思い出し、飛虎はもう10時だから洗濯の時間かなと当たりをつけた。
殷の太師として高禄をはんでいるくせに、うっとおしいから嫌だと家に侍女や執事の一人も置いていないのだ。
必要なことはなんでも自分でできてしまうから人の手を借りることが返って煩わしいらしい。
「まったく、なんでも一人でかかえこんじまうのは悪い癖だよな。ああいうのに限ってよくない女にひっかかったりするんだ」
こうなりゃ早いとこいい嫁さん世話してやらにゃあと余計な決意を固めた飛虎の耳に常ならぬ 喧噪の声が聞こえてきた。

これはどうしたことだ。
門をくぐった途端目に飛び込んできた光景に黄飛虎は呆然と周囲を見渡す。
静寂と整頓をこよなく愛する彼の館はいつもちゃんと手入れが行き届いているはずだ。それが今は、庭の木の枝は無惨にへし折れ、壁にはあちこちに穴が開き、館の中からは喧々囂々たる怒号が聞こえてくる。
これと似たような光景を何度か目にしたことのある黄飛虎には、これが他ならぬ 聞仲自身の禁鞭をふるった跡であると気がついた。
「さては賊か!?」
立場上、聞仲には敵が多い。
今の妲己に操られた宮廷では特に彼女に踊らされた者が彼に危害を加えようとしたことも再三どころではない。
「助太刀するぜ! 聞仲!!」
勢い込んで玄関をくぐった彼の目に映ったのは、一枚の白い布を引っ張りあう、この館の主人と、この間『失礼するわーーん』とか言っていたはずのこの国の王妃の姿だった。

「だっ…き……?」
呆然と呟いた一言を耳にして両名が同時にふりむく。
「あらん。飛虎ちゃん」
「おお、よく来てくれたな、飛虎」
同時にかけられた声に黄飛虎はやはり呆然と聞き返す。
「なにやってんだ、お前ら???」
「別になんということもない。さあさああがってくれ。この女は今帰るところだ」
「いやーーん、聞仲ちゃんったら冷たいわーーん。せっかく妾が日頃お世話になっている聞仲ちゃんのためにお洗濯を、、、」
「いらんと言っとるだろうが! さっさと帰れ!」
「まぁあ! 妾のせっかくの心尽しを受け取ってくださらないのん!?」
「余計な世話だ!! お前の心尽しなど絶対に裏に何か魂胆があるに決まっとるわ!!」
「ひどいわん。別に聞太師の下着の色が何色かなんて知って言いふらしたいわけじゃないわよん」
「しっかりあるではないか!! だいたい避暑に行ったんじゃなかったのか貴様は!!」
「あらん。宮廷から失礼するっていっただけで別に遠くに行くわけじゃないわん。安心してん」
「誰が不安がった、誰が!!」
なんか下町の頑固オヤジと不良ムスメの会話みたいだな、と黄飛虎は考え、いつどう口をはさんだものかと首をひねった。このまま見物してても面 白そうではあるのだが。

「帰れといったら帰れーーー!!!!」

 とうとうこの日何度目かの禁鞭が炸裂し、ようやく妲己は帰っていった。
「じゃあ、聞仲ちゃん、またねーーーん」
という声とともに。

ぜいぜいと肩で息をしていた聞仲はようやく気を取り直したように周囲の片付けをはじめる。
「散らかっていてすまんな」
整理整頓の行き届いたこの館を訪ねる度に毎度毎度聞かされているこの嘘くさい台詞が、これほど真実めいて聞こえる日が来ようとは。
黄飛虎は遠いお空に去っていった妲己を目線で追うように目を細めた。
「まあ、、、なんだな。大変だったな」
手伝おうと手をのばす彼の手を制して、聞仲はちらばった本を手にため息をつく。
「ああ。今朝、目をさましたら隣に寝ていた。
まったくどうやって忍び込んだものやら、、、」
まるで近所の犬猫が来た程度の感慨に、飛虎は顔をしかめる。
「隣にって、、、、お前の寝台のか?」
「そうだ」
彼は片づけの手を休めることなく、飛虎の質問に答えた。
「ひょっとして、、、よくあることなのか?」
「あ?」
「妲己が来るの」
「ああ、しょっちゅうだ」
「しょっちゅうぅう!?」
「休みの度になんのかんのと私の静寂を邪魔しにくるのだ。世程私が目障りらしい」
「いや、、、そう、、、か、、?」
そんな感じはしなかったがなと黄飛虎は首をかしげる。
あれはどうみても邪魔しにというより、嫌がらせというか、世話しにというか、いやいや違うなもっとこう……。
「まったくたまに休みくらいあの女に関わらずにゆっくりしていたいというのに、何かというと妙なちょっかいを、、、」
ちょっかい。
そうそうそれだ。
子だくさんの父親である黄飛虎はああいう反応を息子たちでよく見ている。
気に入った家庭教師(それも女)にカエルの干物をしかけたりするアレの反応に似ているのだ。

(好きな子いじめじゃねぇか。)

呆れたふうに黄飛虎はまだ片付けを続けている親友を見遣る。
教えてやるべきだろうか。
知ったところで喜びなどしないだろうが、どんな反応を見せるか、多少なりとも興味があった。
「おい、ぶんちゅ」
言いかけた彼の声が凍り付く。
「何だ?」
こちらを振り返った聞仲の、その背後。欄干の向こうに広がる青空をバックに翼を広げたような衣装の女が一人。爛々たる目を光らせて彼を睨んでいる。
余計なこと言ったらコロス。
あまりにも殺意が明確だったので、黄飛虎は思わず口をつぐんだ。
「どうした?」
彼の視線が、自分の背後にあると気がついてか、聞仲が振り返ったときには既に女の姿はない。
ないがしかし。
背筋も凍り付くような殺気の余韻はさしもの剛胆な黄将軍の肝を冷やすに十分だった。
(ずぇったい、見間違いなんかじゃねぇ、、、、)
「いやっ、何でもねぇ! やっぱ取り込んでるみたいだから、今日は帰るわ」
「そうか。せっかく来てくれたのに、茶も出さずにすまんな」
いやいや、はっはっはっ。乾いた笑いも早々に、飛虎は聞仲宅を辞した。

「くすくす。お利口ねん。黄将軍」
その後を見送って虚空で笑う美女が一人。
もし彼がそのまま聞仲の家に居座ったりしたら遠慮なく絞め殺してやるところだったのだが。
そうして、ちょっとした結界で他人が中に入って来れぬよう聞仲の家をおおってしまうともう一度、半壊した門をくぐって声をかける。

「聞仲ちゃーーん。  あーそびーましょーーん♪♪」

帰れーーーーーっ!!!!!!!」

 楽しい休暇。長い休暇。お休みが始まる。


  それから約半年後。
妻の死によって、殷を去った黄飛虎は、周に身を寄せていた。
その日は珍しく寒い日で、こりゃあ夕方には雪になるかなと思っていたら、どたばたという騒ぎが聞こえてきた。
「ん? どうしたい周公旦どの」
「おお、ちょうどよかった。黄将軍。ちょっと小兄さまをお願いします」
「お願いって、どうすりゃいいんだ?」
ぐるぐる巻きにされた姫発を押し付けられて人のよい飛虎は困ったような顔を見せる。
「てめぇ! 旦、覚えてろよ、俺とマリリンちゃんの逢瀬をよくも……!!」
後は周公旦の忠実な部下達によってかまされた猿ぐつわのせいでよく聞き取れなくなる。
「逃げ出さないように見張っていて下さればそれでけっこうです」
「……理由は聞かんでもよくわかったが、何も縛り上げんでも……」
「たまにのことなら私も多目にみたいのですが、毎度毎度この調子では周の民に示しがつきません。悪い女にでもひっかかったら困りますし」
「いやぁ。そりゃあ大丈夫だろう」
「はて?」
こともなげに断言した飛虎に周公旦が眉をひそめる。
「あの手のタイプは遊んで場数を踏んでるだけにマジでやばそうな女には近寄らんよ。本能で逃げる」
「ははぁ、、、、そんなものですか」
「そうそう。やばい女にひっかかるってのはたいてい、そこそこ堅実にやってきて小金を溜めたころ合いの善良な中年男とか、女なんか目もくれずにひらすら仕事だけに明け暮れてるエリートさんとか、、、、」
いいかけた飛虎の声が尻窄みになる。笑顔もなんとなく強ばっているようだ。
「……どなたか心当たりでも?」
「いや、、、、極め付けにタチの悪い女にひっかかりかけてた友人のことを思い出してな、、、」
そういえば忠告はせずじまいだった。
大丈夫だろうか。今度あったら聞いてみよう。呑気に後回しにした黄飛虎だったが、今度なんて日ががいつくるのか彼にも分からない。
時既に遅しでないことを祈る、と無責任にも彼は朝歌の方角に向かって手を合わせた。
すまん。もしもうやばかったとしても俺を恨まんでくれよ聞仲。
だって、ほんとに恐かったんだ。あの妲己。