地下1500mに広がる古代の迷宮。
半ば崩れかけたそこに閉じこめられ、食料も絶たれて約数時間が経過していた。
「……誰も来ませんね」
このまま放っておけば確実に餓死する。そんな状況下でずいぶん冷静な声だと自分でも思った。
怪我のせいで頭が麻痺してしまったのか。このシスター・パウラともあろうものが。
だが、いずれにせよ、この場はこのささやかな傷が幸いしているというべきだった。サバイバルなら弱った身体から先に死ぬのが道理だ。
目の前でいやになるくらい頑丈な上司を見やって薄く微笑んだ。
少なくとも、この人より後に、死なずにすむ。
こんな場所で、二人きりで、この人に先に死なれたらきっと私は神を恨んでしまうだろうから。
「どうした、シスター・パウラ。傷が痛むのか?」
狭い岩窟の中でなんとか出口を探していた上司が、ようやく諦めたのか戻ってきた。
壁に持たれて座り込んでいる彼女の脇腹に滲む赤い血をみやり、眉をしかめる。
「大丈夫です。急所は外れていますから」
常ならば助かる怪我だ。
だがこのままここに閉じこめられたままだとしたら————私は死ぬ。
そう思いながらも、心配そうな目で見守る上官には安心させるように微笑んだ。
「そうか。ならばよいのだが」
そういいながら、懐から取り出されたハンカチは意外にきれいだった。
誰か世話をする女性がいるのだろうか。
そういえば無骨な軍人上がりと自分を卑下するわりに、この人の身なりはいつも清潔で一分の隙もなく整えられている。
脇腹から滲む血をその白い布でそっとぬぐう手つきは、ごつごつした手に不似合いなほど几帳面だ。
こちらの肌に直接触れぬように細心の気遣いをしていることがわかる。さすがは大貴族の御曹司というべきだった。
対する自分はそれにふさわしいレディなどでは、到底ない。
ふ、と自嘲してため息をつくと、
「すまん、痛んだか?」
と、勘違いした上司が顔を上げた。普段と変わりない、常に迷いなくまっすぐに人を見つめる眼差し。
「いえ。大丈夫です。お気遣いなく」
耐えきれず視線を逸らした。
きっとこの人には心にやましいものがないのだと思う。
その傲慢なまでの清廉さが、彼女は苦手だった。
「局長は」
迂闊に口を滑らせたのは、死の間際の未練だろうか。
陽の当たる正道を生きてきた、約束された栄光の未来があったはずの人が、自分と同じ世界に属している、その理由が、彼女にはずっと不思議だった。
「なぜ俗世を捨てられたのですか?」
「壊滅騎士」と呼ばれ内外に畏れられた武人。
ローマ随一の名家、オルシーニ家の嫡男。
てっきりボルジア枢機卿のような食い詰め者の三男坊くらいに思っていた彼が、実はれっきとした正嫡の身であり、現当主の長男だと知ったときはわずかながら驚いたものだ。
次期当主の未来を捨ててまで信仰の道に帰依するなど、そんな高等な、あいや哲学的な思想があるとも思えない。
「ん? うむ、何故といわれてもな。話せば長くなるのだが」
突然の問いに、それでも彼女の上官はきまじめに答えた。
「君も知っての通り、某はそのどうも政治というやつが苦手でな。ローマは教会の膝元であり、歴史も古い都市だ。それ故にな、いろいろとこう・・・ややこしくてな」
確かにこの鳥頭の上司に、陰謀術数渦巻く政治のかけひきなどというものが理解できるとは思えない。思えないが、だからといって正嫡の身が、あっさりと責任を放棄してよいものなのだろうか。
「まさか、局長。それが面倒だから逃げてきた、などというのでは……」
「ば、馬鹿者! 逃げるなどとはなんたる言い草だ。自慢ではないがこのペテロ、生まれてこの方、挑まれた勝負に逃げたことなど一度もない!」
拳を握りしめて力説する男の手は、しかしすぐに力無く下ろされた。
「ただな……私には弟が一人いてな。妾腹の出ではあるのだが、歳も近く、幼い頃に母親を亡くしたので、ずっといっしょに育ってきた……まあ実の兄弟と同じほどに仲がよかったといってよい。この弟がだな、その……私などよりずっと頭がよくてな、体勢を見る目もあり、商才も豊かで……ようするに向いていたのだ。政治というやつにな。父も口には出さなんだが、某よりも弟に跡を継がせたいようであったし……」
「それで弟君に跡目を譲られるために得心されたと?」
あきれたお人好しだ、と彼女は思った。
たとえ弟がどれほど有能だろうと、当主であればそれを利用すればよいだけのこと。組織の長は必ずしも万能である必要はないではないか。
「うむ。それもあるがな……その、某の婚約者がな。幼馴染みなのだが。どうも弟のことを好いているようでな。弟もそうであるらしい気配がしていて……あ、いや誤解しないでほしいが、決して二人して某を裏切ったなどというわけではない。むしろ二人ともお互いそれを相手にも某にも気取られぬよう必死で押し隠しておった。それはもう端で見ていて気の毒なくらいの気の遣いようでな。当主の座がどうこうよりもな、愛し合う者がそれではいかん。そうだろう」
同意を求める声は穏やかで、婚約者に裏切られた痛みは感じられない。
だが、他の男に惚れた女の為に身を引く、というのはそれはひとつの愛ではないのか。
そう思うとパウラの心に氷塊を抱いたような冷たさが広がった。
「局長は、それでよろしかったのですか」
震える問いかけに対する答えには微塵の迷いもなかった。
「某が当主の座についたところで、誰の幸福にも繋がらぬ。それでは意味がなかろう」
ではあなたの幸福は?
その自己犠牲に報いる何が、あの冷たい、空々しい欺瞞に満ちた教会にあるのですか。
そう思うと悲しかった。
自分がこの組織にいるのは、他に行き場所がなかったからだ。
幼い頃に没落した家。一族の男達はすべて処刑され、生き残った女は全て修道院に入れられた。なんの保証もなき身が、生き抜く為に、未来を掴む為に、他に身を預ける場所はなかった。
この人は違う。
「貴方には……未来があったはずなのに…………」
目を閉じてふとつぶやいた言葉に、返ってきたのは落ち着いた低い、男の声だった。
「望まれず、望まぬ未来では意味がない。某は今、自分で選んだ道を生きている。捨て去ったものもあれば新しく得たものもある。……それが人生というものだろう」
「得たもの? あるのですか。この教会に」
岸壁からずり落ちそうになる肩を、がっしりとした腕が支えてくれた。
温かな、その人の体温が、彼女の凍った血を溶かして命を蘇らせる。
どうかこのまま。
あなたの熱の中で、私を生き返らせて。
「そうだな・・・・うまくはいえんが、いろいろな」
その中に、私も入っている?
いうまでもないことだが、教会に属する聖職者に婚姻は許されない。
出家する以前に結んだ婚姻関係のみは例外で、正嫡子として認められるのはそれまでに設けた子供だけである。とはいえ、カトリーナやフェルナンデスの存在が示す通り、高位の司祭・枢機卿の間では、正式な婚姻関係を結ばぬ相手を愛妾、夫人として抱えることは半ば暗黙のうちに了解されていた。その間に生まれた不義の子も、「甥・姪」という不文律の名目で存在を許されている。
しかしそれでも許されぬ一線、というものはある。
尼僧との関係はそのひとつだ。
従って、自分の思いが相手にとっても自分にとっても命取り以外のなにものでもないことに、パウラは早くから気づいていた。
もちろん、還俗するという手はある。しかし政治的に抹殺された一族の末裔である自分の還俗は、やはり政治的な理由で許されまいという確信があった。まして上司の愛人に収まるなどという外聞の悪すぎるような真似は、教会だけでなく当の上司の実家——ローマで一、二を争う名門オルシーニ家——が許すまい。反対されればあっという間にひきさかれ抹殺されることは疑いなかった。
それより何より。もしこの想いをぶつけたとしたら、この生真面目すぎる上司をどれほどうろたえさせ、困惑させるか。おそらくこの人の頭の中には、それに応える術などどこをどうひっくり返しても出てこないだろう。誠実に、けれど正論だけで、彼女の想いは丁重に拒絶されるだろう。
だからそんな望みは抱くだけ虚しいと——それは計算高すぎる自分の頭を呪いながらも納得せざるを得ない結論だった。
「シスター・パウラ。見ろ、光だ」
彼女を抱えながら、歩き通しだった上司の声がふいに耳を打った。
薄く目を開けた先に、精悍な横顔が映った。
おおらかさと潔癖さ、剛直さと誠実さ、意志の強さと慈愛の深さ、それらすべてが同時に存在し、矛盾なく結合した理想的な武人の顔。
最初に対面した時はこの単純馬鹿の力押しだけの男が上司なのかと正直情けなく思ったものだったが、それが敬意へと変わり、憧憬へと変わり、さらに深みにはまって恋慕すらしてしまうに至っては、気づいた瞬間に愕然としたものだった。
どうしてなのかわからない。はっきりと侮蔑の意志を込めた皮肉は常に謙虚な反省か誠実な謝意(それが拒否という結果であったとしても)にくるまれ、刺を抜かれた。独断での制裁も彼の意に沿わぬであろう拷問も部下たちの暴走も、激烈な怒りを招きはしてもその後の責任問題から逃れることはしなかった。部下のしたことは全て自分の責任と気負いも衒いもなく言い切り、悪意に満ちた上層部の追及に対し頭を下げることをいささかも躊躇わなかった。
自分にはできない。
素直に、そう思った。
だから上司なのだと、納得した。彼が背後にいてくれる限り、彼女は無責任に、冷酷に、自分も部下も捨てていられた。
この人ならば、捨てられる命だと思った。———捨てさせてくれる、命だと。
それまでの人生は彼女にとってけして本意のものではなく、身につけたすべては「必要」から出た結果だった。だからこそ人生は呪わしく、生きることは半ば義務だった。
死ねないのだから生きている。死は敗北であり、勝者であるためには生き残るしかない。そこに意志はあっても希望はなかった。
教会の奏でる博愛の理想論などに興味はなかった。聖句の中に見え隠れする、神の残酷さだけを愛した。それこそが人生の本質だと信じた。いつかは神のための戦場で果てる。ささやかな自殺願望を後押ししたのはこの上司だ。あなたが捨てろと言うならばこの命を捨てることも惜しくは———。
『そのときはシスター・パウラ。君がいるではないか』
何の躊躇いも、疑いもなくそう言って笑ったひと。
不意打ちの一言は、パウラの生きる指針を根底からひっくり返した。
自分の変わりなどいくらもいると、パウラになら託せるからとそう言って笑った。
そんな信頼に値する自分ではないというのに。
それでもこのひとは、私を信じている。
それが彼女をうろたえさせた。どうしたらいいのか本当に分からなくなるほど、動揺した。
誰にも何にも依らず依らさず、一人で立つことを尊しとしてきた自分にこのひとはいったい何を投げつけたのかわかっているのだろうか。
「シスター・パウラ? 大丈夫か? 口も聞けぬ程重症なのか?」
心配そうな声が降ってくる。目を閉じたまま彼女はようやく首を振った。
「大丈夫だ。もうすぐ出口だ。すぐ助かるぞ」
安心させるように言うその視線が、まっすぐ前を見ていることは疑いないことだった。
まっすぐ、ただひたすらに、その暗闇の中、一筋の光を信じて。
「シスター・パウラ。見ろ。光が見えている」
茨の王道を行く、ひかりのひと。
貴方のかわりなど、誰にもできない。
この命も、この心も、すべて捧げて悔いはないから。
そう。
これは恋ではなく殉教なのだ。
神よ。
わたしはいきてあるうちにあなたのみすがたをみました。
どうかこのまま。このしふくのうちにこのいのちをささげることをおゆるしください。
あなたのかいなにいだかれてひかりのみちをゆく、今、この瞬間。
このときにこそどうか。このけがれたいのちをあなたのしゅくふくのうちにおめしください。
ああ神よ。わたしはこうふくです。
——幸福です。
光の世界を信じ確かな足取りで進む男の、己が躯には一遍たりとて降りることのないその眼差しをパウラはじっと見つめていた。
ただ仰ぎ見ることだけが彼女に許された想いの成就ですらあった。
己を捨てた者のみが知り得る幸福であった。